現場主義

また教会全体の色調もガウディが残した"ケーブル模型"の写真上にグアッシュで描かれたスケッチからみると下部が土と同じ茶色、上に行くに従って松の幹のような銀めっきをした灰色、最上部が木々の頂部のごとく緑から暗紫色、青系統の色というようになっている。
ガウディは当時住んでいたグエイ公園の家から15キロ以上も離れたサンタ・コロマに建設監理のためかなり精力的に訪れている。1909年年(第二年目)38回、1910年80回、1911年(7〜9月まではマルタ熱のため一度も行っていない)100回、1912年143回、1913年57回、1914年(10月まで)47回である。それは特にラ・ペドレラからの退陣、1910年を境に急増しているし、第一次大戦の前兆に衰退している。
しかしそのたび重なる訪問は、その建設プロセスに起因している。その工事の手順は壁、円柱、角柱,アーチ、天井という順番を常としていたといわれるが、何よりも水平投影図ほどの図面のほかには模型をまったくの手掛かりとし、後はガウディ自身の現場での口頭、あるいは簡単なスケッチでデザインが决められていったからである。しかしそれを可能にするには職人側に万全の体制が整っていなければならないのは当然であり、雇用された左官、石工の類はガウディとの仕事を経験しているのはもちろんのこと、常に二,三人多くても四人という数に限定されていたのである。現存する雇用日誌によれば、1908年41.5日分、1909年129.5日分、1910年306.75日分、1911年648.5日分、1912 年783.75日分、1913年851.75日分、1914年1612.25日分となっている。年間労働日数を最大300日と概算しても、数字からは極めて少数の人夫による手仕事ということになる。話はそれてしまうが、この職人たちは百パーセント、この建築家を信用しているわけでもなかった。というのもアーチのサボートを外すとき、崩れて下敷になるのを恐れてその作業を嫌がったのであった。そこでガウディは自らその現場の真中に入って、下敷になるなら一緒になりましょうといつて作業を続けさせたという。これは後年ゼネコンの兄を助けるために材料費を極限まで節約するためにカンデラが極薄のシェエル構造を作った時に似ている。


カメラマンが雇われていたというのに現場写真は意外と残っていない