IV ① オスカー・ツゥスケッツ Oscar Tusquets

1958年、建築の勉強を始める。バルセロナ建築学校を64年に卒業。この間コレア=ミラの事務所で働く。STUDIO PERの一員として事務所を開き。現在はCarlos Diazとの共同事務所も並行して運営。若手建築家のなかでいま一番波に乗っているのがトゥスケッツ。


―最近、ドメネク・イ・モンタネールが設計した、いわゆるカタルーニャモデルニスモ建築の代表作である、カタルーニャ音楽堂の増改築を終えられたばかりですが、あの建物で一番問題になつていた音響の問題をどう解決されたのでしようか。
音楽堂にはふたつの音響上の問題がありました。まずひとつは遮音で、原作者のドメネクノ気違いじみた判断なのですが、音楽堂をガラスの箱で設計しているため外部の雑音を少しでもカットしなければならない。

―あの巨大なステンド,グラスでできた壁のことですね。
遮音するのは大変困難なことです。我々は、厚手のガラスをステンドの内と外に置きました。ステンドはとてもデリケートでしなやかなので。もうひとつの音響上の問題は、“音質”をレべル・アップすることです。音響コンサルタントは、ベルリン・フィルのコンサート・ホールを担当した、クレーマーという人物です。彼は音響の専門家であるだけではなく、自分で楽器をやっているという音のマニアです。彼がまづ最初に指摘した点というのは、このデリケートなステンドが音を吸収する面であるということです。このため、残響時間が異常に短くなっているのです。特に低音が不利になってくるということです。そのためにも音を反射せずに吸収してしまうステンドを、堅い別のガラスの板で覆ってしまえということを助言されました。

―つまりドメネクのガラスの箱をトウスケッッは更にガラスの箱で包みこんでしまったということですね。
また、吸音性能の高い内装材をできる限り取り除いてしまえということで、カーペットやカーテン等
を外してしまいました。観客の衣類がすでに充分すぎるほどの吸音性能をホールに与えているからです。ただ、こういった改善が音のクオリティに直結したかということは、必ずしもあたっていません。確かにデータ上からは残響時間が延びたのですが、音質の良し悪しがというのはあまり関係がなく、パーソナルな好みですから、ある音楽家たちからは批判されることでしょう。

―ステージの形を変えてしまったために、新聞などでこのところ盛んにたたかれているようですが、それはどういうことでしょうか。
知っての通り舞台奥が、半円型になって、しかも壁がセラミック張りという堅い材料でできているので、特にコーラス等が並ぶと音がこもってしまう。しかも、舞台面積が小さいからオーケストラが並び切れない。ということで、舞台を客席の方へ待ち出したんですが、一部の連中が客席が近すぎると言っているんです。これもクレーマの指示でコーラスを前面に出し弦楽器の音量を抑えるためです。

ドメネクが3年間で完成させているのに、設計から現在まで7年間かかったということですが、一番の苦労は何でしたか。
今からすると、とても楽しい作品となりました。何しろ一番苦労したところというのは、まったく見えないところなのです。いかに手を加えたところを見せないようにするか、ここに建築家としての腕が要求されました。例えばセキュリティでいえば、非難時間が前の半分に短縮されました。それに空
調の吹き出し口をどうするかとか、またホワイエをどう取るかとか、隣接の教会を増築部分としてどう考えるかとか・・・・・難しいところばかりです。でも、7年間もかけてやるという仕事は、一生に一度やるべきだね。何度もリセオのオペラ劇場をやらないかという話があつたけど、また7年間も劇場へもぐり込むというのはゾッとして断っているけど….。

―話を変えて福岡の話を聞かせて項きたいのですが、今どういった段階なのでしようか。
我々のものが一番先行していますよ。石山修武の「パイナップルとバナナ」とか、ポルザンパルクのも、まだこれからみたいですよ。連中はだ契約をウンヌンやっているんだけど、我々はもう終わったも同然です。福岡からプロモーターがバルセロナヘ来てディテールの詰めも終つています。現地のパートナーの建築家、 2人の構造設計者が8人揃って、3日間のミーティングをバルセロナでやりました。君はちょうどあの頃バルセロナにいなかったんだ。展開図もできていて、もう終ったというところだろうか。

―あの福岡地所のためのアバートはシンメトリーで、コンポジションのクラシックさもさるところながら、あなたにしては“まじめすぎる”ほどの作品なのですが、どうなっているのですか。
以前、福岡でミーティングを持った時、若い建築家のひとり人から、“トゥスケッツの建物は奥さん層から理想のマンションとして好評だ”と批判的に言われましたが、僕はそう言われて実にうれしかった。僕は前衛すぎるより、使いやすくて質の高い作品を、限られた予算のなかから作っていく主義。
僕にはほめ言葉として聞こえました。僕はジエスチャーなしで、バルセロナで自分が住むため、という心がまえで、設計をやったんだ。何しろ、僕のマンションが一番売れているらしい。

AT 1990.02より

後記

現在では第2期工事も終わっています