コロニア・グエルの地下聖堂

スペイン,バルセロナ,サンタ・コ口マ・デ・セルベジョ,1908~15
アントオ・ガウディ・イ・コルネ
CRYPT OF GÜELL COLONY
Santa Coloma De Cervelló. Barcelona. Spin/1908 -15
Antonio Gaudí i Cornet

ちょうど10年前のことになる。今から考えると僕のスペインでの最初の仕事になるわけなのだが,当時バルセロナ建築士会で文書保管室のディレクタ一をしていたタラゴ氏がある事から,サンタ・ロマデ・セルベジョにあるガウディの地下聖堂の実測図を起こしませんか,という話をしてくれた。まだバルセロナにきて月日も経っていず,スペイン語ももどかしい頃であった。あれは忘れもしない73年から74年にかけての冬で,当時住んでいたバルセロナ,隣接のオスビタレット市にあるブラット・ホームだけの小さな駅から,あの頃はまだ民営だった「カタロニア鉄道」という,市電のワゴンを何両か連ねたような狭軌鉄道に揺られて,実測に出かけたものだった。
それでも2ヶ月はかかっただろうか。オスビタレットの駅からサンタ・コロマまで30分とはかからず,運賃が当時4ペセタ,その頃の円換算で20円と馬鹿に安かったのを今でもよく覚えている。なにしろサンタ・コロマはジョブレガット河沿いにあって,バルセロナと気候からいえばさほど差はないのが,湿気の関係から実感温度は数度低く,凍てるその寒さに体の芯まで震わせながら作業をしたものだ。しかし今から考えてみると,あの震えというのは寒さからだけではなかったのだろう。サンタ・コロマでの実測図というのは,サグラダ・ファミリアの建築家ブーチ・イ・ボアダが当時進めていた研究の下資料となるものであった。氏はサグラダ・ファミリアの建設続行に午前中携わるかたわら,午後にはこの小さなガウディの作品の研究に没頭していた。この研究は,既存の地下聖堂部分の実測調査を基に、ガウディが何枚かの写真として現在に残している懸垂曲線実験を明らかにし,未完に終わったこの教会の全体像を図面化してゆこうというものであった。しかも彼の本来の目論見は,この研究を書物として世に送り出し,成せることなら彼らがサグラダ・ファミリアでやっているように,このコロニア・グエルの教会も建設続行にもってゆこうという途方もないエネルギッシュなものであった。その頃彼はすでに70の半ばをとうに越していたが,それに傾ける情熱というのは並々ならぬものがあって,僕にはどこかガウディ像と重なり合って見えたりした。
サンタ・コロマの無人駅を降りると,いや本当は無人駅ではなくて,駅員がいることはいるらしいのだが,降りる人もいないせいかいつもどこにいるのかわからない。ともかくブラプトホームを出ると,舗装されていないででこぼことした一本の道が山のほうに続いている。それでも道の両側にはプラタナスが端正にも植え込まれていて,アクセスらしきランドマークが描かれている。いよいよ寒々しさが増してくる。坂を登ると右手に中世の城のような建物が見えてくるが,これがグエルの居館であると思っていたのだが,後年になってグエルは工場脇の質素な家に住んでいたということだ。ガウディが教会建設中には何度も泊ったところである。ただ,今は人手に渡ってしまつたばかりか,荒れ放題で見る影もない。反対の左手には地中海松の林がこんもりと残っていて,この間をしばらくゆくと、うずくまるようにひっそりと建つのが,このガウディの教会である。松林の中に埋まり込んでいるというのが誰にも共通した第一印象だろう。
ところで,駅あるいはサンタ・コロマのコロニーの所有者であるグエルの居館からもこの教会へ自然とたどり着いてしまう。教会へのエントランスは村というか工場を向いて置かれている。ちょうど教会のあるところで丘は終わり,そこから南方へはコロニーが,さらに東方の奥には工場棟が煉瓦で高く積み上げられているのが見える。祈祷狂といわれたグエル伯爵は,バルセロナ市内のグエル館は無論のこと,狩のためのパビリオンとしてつくられたガラーフの小館ですら礼拝堂をプログラムに組み込んでいる。サンタ・コロマの教会は労働者のためにオリエンテーションがとられていることがこれで明らかだ。事実、コロニーの建設当初は,礼拝ミサには労働者も含めて,グエルの居館内にある礼拝堂を使っていたが,それが余りに手狭であったために新たな宗教空問の必要が起き,これが教会堂建設,そしてガウディへの設計依頼へと結びついたのであった。
バルセロナのスペイン広場から出ている「カタロニア鉄道」はサンタ・コロマを北上し,ジョブレガット河に沿って敷設されている。ラ,ボブラ・デ・リジェットはこの沿線の終端にあって,ここにはカタロニア最初のセメント工場が建設されていた。これもグエル伯の経営である。ジョブレガット河の沿線にはこの他にも産業革命後,カタロニアがゴールド・ラッシュをむかえるとともに工場が乱立している。コロニーだけをあげるなら,1872年設立のアメトジャ・デ・メロラのコロニー,1869年設立のロサルのコロニー は現在も操業継続している工場のある代表的なコロニー だし,他にも地名化したコロニア・ビダル,コロニア・プラットといったコロニーがある。「カタロニア鉄道」は,まさにこれらの産業革命の動脈となっていたのである。
コロニア・グエル,つまりグエル伯のコロニーはこういった工業コロニーのひとつであり,1891年3月にバルセロナの山手側サンツにあった父創設の綿工場が手狭となったため,所有地であったサンタ・コロマに移転してきている。
僕は実測で冷え切った体をほぐすためにこのコロニーのほうへよく歩いて出たものだった。2〜3層の前庭を持つイギリス風の連続住宅がそこには建ち並んでいる。おもしろいのは,イギリスではこれらの労働住宅がタイポロジーだけでなく,オーナメントやディテールに至るまでもが画一化されているのに,サンタ・コロマでは,まるで都市史のプロセスをすでに生き抜いてきたかのような個性豊かな表情が,長屋の一軒一軒に与えられていることだ。
煉瓦という低廉ではあるけれど,装飾性からはこのうえもない素材を充分にこのコロニーでは生かしている。スペインでは,ムデハル様式という煉瓦建築の装飾的伝統があり,カタロニアのアイデンティティ回復運動から生れ出ているモデルニスモであっても,盛期にはその表現主義的な様相に魅了されて,ムデハリズムへと接近している。特にガウディは,「ビセンス邸」から始まって,「グエル別邸パヴィリオン」や「カプリチョ邸」「聖母テレサ学院」ですでにこの素材を建築表現としては充分なまでに磨き上げている。
その弟子たちによってつくられたコロニーであれば無論のことであろうが,煉瓦造が目立つ。なかでも際立っているのは,ジョアン・ルビオの「工場長の家」そしてフランセスク・ベレンゲールとの共作になる共同組合,あるいはベレンゲールの「小学校」であろうか。当時は建築としてすら考えられていなかったマイナー建築を建築として評価し得るレヴェルまで引き上げている。ベレンゲールの線状建築群を高く評価すべきであろう。因に同じグエル伯のコロニーでも、ラ・ボブラ・デ・リジェットのセメント工場は最近発見された工場施設の図面類によれば,設計者は建築家ではなく, ニューヨークのエンジニアであり,マイナー建築を物量的価値観に置き換えて処理しょうという時代的な手法をとつている。
コロニア・グエルの住宅群には,バロック,ロマネスク,アラブ,ゴシックからパッラーディオがあり,アラゴン地方の豪邸、カタロニア地方のマシア,ルネッサンス風の塔状階段までが建築のカタログを紐解くようにある。しかもこれらのほとんどが煉瓦というボビユラ一で,俗悪ですらあり得る素材で組み立てられているのである。
コロニーは工場群とは完全に切り離されていて,L字型に全体は配置計画がされている。教会とはちょうど反対に学校があり,他に劇場,カフェ,共同組合,託児所,運動場,広場といったコミュニティ施設が整っているばかりか,周辺には畑までがあって自給自足のできるユートビアがここにつくられている。
コロニーの全体計画は,ガウディがその死に「右腕を失った」と嘆いたベレンゲールが担当している。建築主はガウディの生涯のパトロンであったグエル伯。98年になってコロニーに教会建設の話が持ち上がれば,まったく当然のことながらその設計はガウディがやることになった。
工業コロニーではどこでも宗教努力との接近があり,前に掲げたいくつかのコロニーでも必ず自らの教会を持ち,僧侶はもちろんのこと時には少数とはいえ修道僧すら置いていたケースもある。コロニァ・グエルも操業が順調に進むようになった98年に,早速,教会堂建設に着手したのだろう。
ガウディ当時46歳。充分に経験を積み,第一線建築家としての高名は得ていなかったものの,確固とした位置をバルセロナの建築界に築いていたし,市民からはサグラダ・ファミリア教会の建築家として知られるようになっていた。ただ作品系譜を見てゆくと,ちょうど98年まで計画の途切れがあって,ガウディはサグラダ・ファミリア教会の他はこれといった大きな仕事をしていないのだ。つまり,93年と94年にアストルガとレオンの作品を終えているが、年譜からの次の大きな仕事というと,同じ98年のカサ・カルベになってしまう。ガウディはこういう状況があるにもかかわらず,コロニア・グエルの教会建設を急がなかった。教会の礎石が置かれたのは1908年の10月4日。なんとグエルからの設計依頼があって10年の歳月が過ぎ去っていた。この間にカサ・カルベは無論のことベジェスグアルド,モンセラの栄光の第一秘蹟カサ・バトリョの建設を終え、グエル公園パルマ・デ・マジュルカのカテドラル修復,ラ・ペドレラは建設中であり,サグラダ・ファミリア教会も御誕生のファサードと'鐘塔着々と進めていた。まさしくガウディは働き盛りであった。
ガウディは1898年から1908年のまる10年間を,あの懸垂曲線模型を初めとする建築の研究に注ぎ込んでいた。その周到なる研究の成果は,彼のライフワークであるサグラダ・ファミリアへと当然受け継がれてゆくべきであろうが,サグラダ・ファミリアの建設はすでにとうの昔に始まっていた。しかもその礎石を匿いたのはガウディ自身ではなかった。そこで,彼の執念とさえも思えるこの働き盛りの10年間を費やして基本設計をしたコロニア・グエルの教会こそが,ガウディの本当の代表作品であるというのが,エンリック・力サネィスの論理であり彼のこの主張から20年を経た現在でも,彼の理論をくつがえすほどの魅力ある研究は発表されていない。
ガウディの懸垂曲線模型は、現在の構造実験用の模型というところであろうか。リブや柱という荷重のかかる部分はケーブルで代用され,それぞれの部分にかかる個々の荷重はそれ相当の鉛が入れられた小さな袋で代用され,複合したヴオールトの重ね合わされた三次元空間をつくり出して,イメージから形のあるものへと移行させる作業をしている。10年間のこの構想と実験の期問にはガウディの忠実な弟子たちである,建築家カナレータ,ベレンゲールが協同しているだけでなく,当時バルセロナの水道局でエンジニアとして働いていたドイツ系のエドゥアルド・ゲーツが加わっていたということも,懸垂曲線模型が構造実験模型であるという色彩を強めているだろう。
しかし,ケーブルと小袋でつくられたこの模型は,ヴォリューム決定というむしろ審美的な検討段階では,幾多にもからみ合ったケーブルのうえに紙が張られ,さらにこれを見定めるためには写真として撮られ,この天地を逆にしておいて,ガウディは写真のうえに直接グァッシュで構築されるであろう立面を描いていった。現代建築での「美か用か」の論争はガウディには適応しそうもないのだ。
ガウディは中世主義者であった。サグラダ・ファミリア教会の柱の断面を、中世の石工長が石の板に描いてみせたと同じようにして残しているし,いつの時も図面を嫌って模型を工事の現場に据えて,ディテールは現場で直接石工に指示するという現場主義をとり,晩年のサグラダ・ファミリア教会現への寝泊りも,中世の建築界ではよくあったことだ。懸垂曲線模型も技術的な外貌を見せてはいるものの,機能主義建築以降の発想では解釈しえないものではないだろうか。
ガウディの空間は,建築の世界が分化していったがゆえに失くしてしまった,空間の総合的リアリズムとでもいうものを確かに残している。ガウディの発想は「用」からでも「美」からでも,ましてや「用と美」の嚙み合わせでもない。近代に入って忘れ去られてゆこうとする,未だ建築家が空間の総合的演出家であった中世の建築的伝統を弄り出そうというのが力ウディであった。ガウディのゴシックへの接近もこの彼の指向をよく説明するものであろう。
ガウディはこう言っている。「ゴシック芸術は不完全である。解析の途にある。それはコンパスの様式であり,方程式の様式であり,工業的反復の様式である。その安定性はバットレスが支柱を支えるということに常に頼っている。つまり不完全な軀体だからこそ松葉杖に支えられているのだ。完全な統一性というものが欠けている。溝造は装飾に完全に溶け込んでいない。おわかりか,この装飾というのは付け足しなんです。建築作品とは係わりなく取り払うことができるものです。」
コロニア・グエルの地下聖堂へ一歩足を踏み入れると,この成熟したガウディが築き上げようとした空問が凝結して展開されている。アブス部からのあのエコロジストかと思われるような,あくまでも控え目で松林の中へうずくまっているような外観とはうって変わって,ガウディ特有のアナトミイックなトーンで彩られた,オーガニックなダイナミズムが迫ってくる。柱は樹木のように枝分かれして,思い思いの方向へ伸びてゆく,小枝にあたるこれに続くリブはところかまわず天井にカーブを描いて這いずりまわっている。開口部はさまざまな方向にむけて開けられ,射し込む光が荒削りな柱のシルエットを浮び上らせている。現代建築が押し付けてきたさまざまのテーゼがここでは覆されている。
方程式はここにはないのだ。工業的な反復というものもない。そこにはガウディがあるのみだ。ガウディは中世の建築から出発しているものの到達した地点は遥かに遠い。
ガウディはこうもいっている。「創造とはとは起源にかえることだ。」

たんげとしあき:1948年名古屋市に生まれる。 1971年名城大学卒業。同年にガウディ研究のためにスベインへ渡る。本誌コレスボンダント,在バルセロナ

A+U

1984年3月号より

http://d.hatena.ne.jp/Arquitecto/20120204/1328717564