カサ・ミラーボスト・モダンの標石

レボート
カサ・ミラーボスト・モダンの標石
丹下敏明

「この建物が将来一大ホテルへ転用されたとしても私は少しも不思議とは思いません。そのために平面構成の変更が容易であるように考慮してあるし,また洗面所もたくさん設けてあるのです。」
一ガウディ一

こうしてガウディが半世紀以上前に予見したように,カサ・ミラは建設当時バルセローナ市のほとんど境界という位置から,現在はその中心に位置する構築物となり,16のマンション,14のアパートメント,12台収用のガレージなどのほか,学佼,商社事務所,バー,領事館,開業医院,文化団体事務所などを含んだ複合建築と化して機能を果たしている。それに一時とはいえ,実際ペンションとして使われた事すらあったし,提案に終わってしまったとはいえ,一大ホテルへ転用されようとしたことや,20数億円でバルセローナの建築士会に買い取られ,同会本館とされようという計画もあった。
カサ・ミラは,その呼称のようにミラ邸を主階に置くミラ家の不動産として1906年から1910年の間に建てられたが,1948年以降はある不動産会社の名義となり,1955年には屋上階や建築家コルシー二の手によって14の貨貸アパートメントに改装せられ,1969年には国によって歴史,芸術建造物として指定されている。今も建設当初入居した4家族ほどがあり,(といってもその後継者だが)彼らは月1500円という途方もないレンタル料を支払っているそうである。しかもそれらのマンションが1戸当たり280平方メ—トルから1000平方メートルの広さを持っているといえば,その途方のなさがわかるはずである。1955年にアパートメントとして改装された屋根裏階の床面積が40〜60平方メートルで6〜7万円のレンタル料であるといえば,その対比がより明らかになるだろう。ともかく1955年に持ち主が替わった際,この一等地でのカサ・ミラ不能率な土地回収率に対して,取り壊しが囁かれたことを思えば,現在の姿はいやはや幸運とさえ言えよう。カサ・ミラはまたガウディの作品系譜の中にあってかなり重要な位置を占めている。それは非宗教建築として最後の作であるということだけではなくて,成熟期にあって,また最大の大衆的支援のもとに,バルセローナ市最大の規模で建てられたことに重要性を持っている。
つまり,イスラム様式をゴシックでくるんだパラウ・グエル(Palau Güell, 1886〜90年)、ゴシック的な機械合理主義によるサンタ・テレサ学院(Santa Teresa, 1888〜90年),鉄柱の起用により平面にフレキシビリティを与えたカサ・デ・ロス・ボティーネス(Casa de los Botines, 1892〜94年),ネオ・バロックのフアサードを持つ折衷主義の最後の作品となるカサ・カルベ(Casa Calvet, 1898-I904)から,カサ・バトリヨ(Casa Batlló, 1904~06年〉といった,まさしく個性的な作品を完成させており,グエル公園(Parc Güell, 1900〜14年〉やサンタ・コロマの教会(Colònia Güell, 1898-191)はすでに着手されており,ライフ・ワークであるサグラダ・ファミリア教会も御^誕生の門ファサード下部,丁度鐘塔の基部あたりまで終わらせまた,人生のうえでもミラ家のような名家から仕事を受けるようになって,若い頃夢見た「仕事を愛し,金持ちになること」をもある程度実現させたし,サグラダ・ファミリア教会の建築家として,またパセッジ・デ・グラシアという当時のバルセローナ市最大の繁華街に二つ目の建物を設計するなどということから市井建築家として確固たる地位を確立しているわけで,世間的な名声や財産を失う晩年への急降下に対して,まさしくビークともいえるのがこの時期である。
建設規模にしろ,約34x56メートル,面積1800平方メートル,しかも角地で,8層プラス地下1層というこれまでにないものである。
しかし,このガウディが迎えた黄金期における彼が成し得た個性に対して,ヨーロッパやアメリカでは新たな傾向が,しかも後に支配的な傾向というものが推進されていた。ワーグナーのウィーン郵便貯金銀行(1900〜06年)はカサ・バトリョと時を同じくしているし,ペレのボンテュ街の車庫完成はやはり1906年である。そしてライトはラーキン・ビルに次いでオーク・パークにユニティ教会を,また翌年のヨーロッパでは「ドイツ工作連盟」の展開と続いている。
これらはバルセローナという地理的条件や,スペインの混沌とした政治体制による弧立以上にこの力サ・ミラやその他のガウディの魅力的な作品への評価を遅らせてしまったのは周知の通りである。だが,現時点つまりポスト・モダンからみれば,カサ・ミラやガウディの作品はもっと我々に魅力的に甦ってくるのではないだろうか。かのコルピュジェですら,1957年に寄せた,ホアキン.ゴミスの写真集「ガウディ」のブロローダで,ガウディの建築を指しながら,「建築とは個性のたまものである。まさしくそれだ。ひとつの個性の表明なのだ。」と書いているが、彼自身もその年にトウーレットの修道院を完成させており,その少し前にはあのロンシャンの礼拝堂を設計し,直線の美、技術至上主義への便宜法をかなぐり捨てているではないか。ガウディへのこの数年来の建築家をはじめとするさまざまな芸術家や文化人の持つ関心とは,この意味で決して無駄ではない。それどころか,何らかの解决すら我々に与えてくれる可能性すらあるのではないか。こういったところで,カサ・ミラをもう一度再検討してみようではないか。
ガウディはカサ・ミラのために二つのブロジェクトを案出している。第1のそれは中央に一つのパティオを置いたもので,そのパティオに沿って二つの,つまり上りと下りのスローブを付属させることによって屋外から直接各戸まで街路を引き込もうという驚くべきダイナミックな構想である。というのも,彼には高級高層マンションというより,多層化された大邸宅というものが集合住宅のイメージにあったからであろう。もっとも彼の好んだ.集合住宅により近いのはグエル公園で計画された健康住宅タイブのものだったに違いないが将来,市の中心に位置するであろうことを見込んでいたカサ・ミラの敷地では,都市住宅化されるのが当然と考えていたのだろう。そこで彼は大邸宅をまさしく積み上げる,あるいは人工大地を積み重ねるという構想を,各戸へ直接車を導入させることで試みようとしたのであった。
このプロジェクト,というよりアイディァが実現されなかったのは、スケール・アウトにあった。
というのもスローブの匂配が100分の10以下という当時の自動車の性能上、スロ一ブが巨大化してしまい,そのうえ当然のこと車寄せや車庫の必要性も生じてくるため有効スペースに対してサービス・スペースがその倍以上になってしまうからである。残念である。
これに対して第2のプロジェクトというのは,ほぼ実現されたものに近い性格を持っている。つまり,車庫を地下に.もっていってしまう方法である。そして二つのパティォを開けてそれを囲むように住居空間を配置するものである。
各フラットは4分されるが,各戸は街路面と内パティオ両方のファサ一ドを持つように考えられていて,やはり大邸宅を積み上げようという構想を捨てず,またそれをエレべーションからも考へているのである。しかし,このことにもう少し正確な解釈をつけ加えるとするならば,各戸に最低2方向の開口部を設定することで,換気,採光という衛生問題を処理させているのである。この意味では彼の健康住宅に対する構想が破られてはいない。例えば先のカサ・バトリョにしろ,現在塞がれてしまったとはいえ,パティオからファサードへは数本の埋め込まれたパイブが通っていて,パティオの換気に助力していたし,ファサ一ド下部には地階の換気,採光のための小窓が開けられていた。これの方も後の改装にあつたのだが,実のところ街路からパティオへ新鮮な空気が送り込め得ないという,現在我々が生きている大都市環境の痛ましい現状がある。ガウディ個人のこの当時のグエル公園への引越しも,実は父の健康を思ってのことで,個人的な都市住宅の悩みがカサ・バトリョカサ・ミラと反影しているのだが,それから70年後の今日の状況は更に痛ましいものである。
第2のブロジェクトへ話を戻せば,このプロジェクトが1906年2月に市へ,認可申請のために提出されたものである。加えて説明するとすれば,ここにもパティオの内側を走る自動車用のスロープが,階段という形で保持され,補助階段はあるが,エレヴェータはない。各戸は20前後の大小の室に区切られ,いずれも角を削られていて,あたかもケルトの集落のようである。各フラットは4分されているため(ただし主階のミラ邸フラットは2分)敷地面積1800平方メートルからパティオ面積300平方メ—トルをとると建築面積は1500平方メートル,それを4分すれば1戸分の床面積は400平方メートルということになる。まさに大邸宅である。
著作を何ら残していないガウディの建築論を再構するのは,ほとんど不可能であるが,それを助けてくれる弟子ベルゴスが書き取ったノートがあり,それよりかいつまんでみれば,快適な住宅は1戸150平方メートルが必要で,工夫すれば120平方メートルまで可能だが,2階建にした場合には,階段踊り場などが必要になってくるため300平方メートルは必要であると説いている。寝室は4x4 メ —トルなければならず一辺が短い場合は他辺を長くすること。階段巾は1.25 メートル,廓下はゆったりとさせるには巾1.25 メ—トル,労鋤者住宅なら1メートル,浴室はゆったりさせること,のびのびと着替えができるためで,もし身体の不自由な人のいる家庭なら2〜3人が同時に入れる広さにすること。また必ずしも寝室の側に置く必要はない。というのは離れていれば客用にもなるし,各人起床時問が違うので,使用時間もさまざまであるから。トィレはサイフォンを使えば直接の換気は不必要である。従ってガレリーとか隔離された場所に取ることもなく,他のどの住空間とも同等な配置ができ,面積が充分ない住宅の場合では浴室の中に設置することができる。食堂はサロンよりもっと大切な位置を占めるが,食堂とサロンはともに隣接していること。なぜなら友人を招いてのパーティも食事がなければ親密感が出ないからであり,そのためにもサロンと食堂は隣接しなければならない。寝室は直接換気が可能な位置に置くこと。奥まったところに計画すべきではない。台所は階段にも居室にも臭気を流さないために,換気用の特別なパティオに面して置くべきである。などと言っている。
これは若い,まだ建築科の学生になったばかりのべルゴスに対して語られた一種の個人教授であるが,60を越えた経験豊かな建築家の,しかも人間味豊かな教えをみることができる。
さてカサ・ミラはこのガウディが説く快適な住宅の床面積の2.5倍を持ち,廊下,通路,階段は1,2〜2メートルというゆとりを持たせ,寝室は静かであり,換気効率も高い内パティオ側に面して並置され,浴室とトイレは同一空間に収められて,その配置も决して寝室にむやみと隣接させてはいず,食堂はサロンと並置し接客のもてなしにも気を配っている。ブランでの特色は二つの円形,楕円形のパティオと内パティオ,それに6つの換気通風用の小パティオがあることである。これは20世紀に入ったバルセロナ市での最大の社会問題のひとつであつた呼吸器系の病気に対するメガ・ストラクチヤ一における唯一の対策であったのだろう。
フアサ一ドのエレヴーションをみると,開口部は不均一に,しかも水平線にも不連続が強調され,カサ・バトリョ張りぼて式に付けられたファサードの曲面は,ここではブランから起き上がつたようにうねっている。バルコニーがこれも不連続にしかも,無分別なほどに不整形な窓を繋いでいて,マンサードは刻みが付けられ、城壁のように終わっている。
またパセッジ・デ・グラシアとの角には螺旋状の塔が立ち,その終端を十字が飾り,ブロベンサ通りの角にはティンパン状のもり上がりがあり,宗教的なモチーフのレリーフが刻み込まれている。
処女作であるビセンス邸から少なくとも建築最優秀年度賞を受けたカサ・カルヴェに比べ,何とソフィスティケィトされたデザィンであろうか。これを建築家の円熟とみてよいのだろうか,それとも彼自身の人生の成熟,あるいは人間観のある論法なのだろうか。
職業年28年,54歳をむかえたガウディである。ところがこの図面も実現されたものとは違ったものであった。
その原因は偏にガウディの設計上のプロセスにあつたといえる。
実はここでいう第2のブロジェクトは100分の1のスケールで提出されたのたが,その前に200分の1のスケールでほとんどク口ッキー的な図面が存在していたのである。そのクロツキ一は円柱が間仕切壁の内に納まっていないことのほか,ほとんど市へ提出した図面とかわらないのであるが,こういったことから当時の若いジャーナリストで評論家のドールスなどに,「ガウディは図面ひとつ描く法を知らない,デザインは夜毎の夢見で决める。」と評されるのである。
ガウディのデザィンがこのように何度も変えられたことは事実である。ところが彼のやりかたというのは,書いた図面なりスケッチを,消したり捨てたりすることはせず,その上に新しい紙を重ねて修正やディテールを練ってゆくという方法をとつている。そうすることで前のアイディアと直接比較検討することができるからであり,更に計画を練り固められるからである。しかもそれは竣工のその日まで続けられた。それともうひとつにはガウディにとつて図面化とは計画から竣工までのひとつのプロセスでしかなかったのである。彼は図面によって建てられたものを疑似図面(ブラノイデ)と呼んでいる。つまり2次元である図面から施工へ持ってゆくということに非を認めているのである。
というのも始めから人間にはふたつの未知数の解析しかできないところから出発していて,3次元である空間の構成の不可能さを認識していたのである。つまり人間には2次元の図面上でしか計画を决定することができない,しかしながら空間は3次元なのである。
そこで彼のとった方法とは,丁度その父親がやっていたように,一枚の銅板を目前に置いて,どういった鍋をつくろうかというイメージを持ちながらも,実際にある鍋の形に仕上げるのは鎚の一打一打の間に,しかも何度も何度も全体を見きわめながらの一打一打で決定されていき,完成されるというものなのである。だからガウディにとつて図面とはイメージ,しかもまだ凝結していないイメ一ジであり役所への申請という対外的な繕いなのであり,契約書という何ら仕上がりと本来的関係を持たない紙切れであったのだろう。もっともこのことで,ガウディが図面を疎かにしていたということにはならない。弟子ベレンゲールに1ミリ間隔の線を引き,その中に何本線が重なり合わずに引けるかを練習させたガウディであるし,幸運にも現存するカサ・バトリョファサードのために描かれたクロッキ一で彼自身の図面に対する気のくばりょうというものもはっきりと察することができる。
カサ・ミラでは地階ができると,そこに10分の1の石膏模型が据えられた。もっともその模型も建設の進行と共につくられ,手が加えられてゆくのであつたが,それから図面を起こすのではなく,石工にそれを見せ直接10倍にさせた。しかも切石は目地面だけが削られ,いったん積み上げられた後,ガイドとなる鉄筋がそのうえに貼り付けられ,水平線が検討されたうえで始めてノミが入れられたのである。この方法で建設が進められていったのは何もファサードだけではない。例えば天井のこれまでカタルーニャで憤例とされていた仕上げの方法は,編んだ葦をスラブに張り,そのうえをスタッコで仕上げるものだが,ガウディは天井に波を打たせるためにスチール・メッシュを葦のかわりに使い,それをまず早乾性セメントでもって下塗りしておいて,大まかな形を整え,さらに作業中にも修正が加えられるように遅乾性セメントで中塗り,これをブラスターで最後に仕上げるという具合である。
ここにもはっきりとした設計作業と現場作業の一体化がみられるが,これこそガウディの空間の確かさをつくりあげることになった手法なのである。彼は机上の理論化でもなく,机上のデザイナーでもなく,経験主義の職人でもなかった。しかし彼はその全てを兼ね備えていたのである。
ところがこの方法は官僚システムからすればまったくそぐわないものである。建設中の1908年1月28日には役所からパセッジ・デ・グラシアの側の歩道に1メートルも突き出した柱に対して抗議が出た。2月17日には,ブロベンサ通りのファサードの突出部が2 メートル,巾46メートル,パセッジ・デ・グラシア街のファサードでは,3 メートル,巾23メートルにわたって申請図面より余計につくられていたため違法建築として摘発されている。また建設がかなり進んでいた1909年の9月28日にも軒高制限を越えていることで訴えられ,10月21日に市長から建設中止命令が出されている。これにも無感心だったガウディに対して、ついに11月6日,24時間という制限付きの中止命令が厳しく言い渡された。階数は図面と同じなのだが階高が4.4メ—トル越え,そのうえ6メートルほどの6つの塔が建ち4000立方メートルばかりも市街地条例からはみ出ているのである。市の建築局の役人建築家も市条例を越える部分を直ちに取り壊わすべきという意見を述べた,結果的には建物の芸術性が認められ,再認可になった。
このように,またそういった方法でつくられていったカサ・ミラは市役所へ提出されも図面とは随分違ったものとなったのである。
ブランでは間仕切りの力ーブが多角形に置き換えられている。しかしカサ・バトリョのブランが角を丸く削り落としているというのに対して(もっともこの方は修復であるということもある)カサ・ミラはあくまで曲線からの草案であることが明らかである。その変更の理由は確かにされていないが,恐らくは施工時間の短縮にあるだろう。彼はその作品の手工芸的な味わいとは別に,建築の工業化や新材料の導入といったことに必ずしも無頓着ではなかった。グエル公園の門番小屋の屋根ではスペインで始めての建築への導入と考えられている鉄筋コンクリートを使っているし,ミラージェス邸の門ではその屋根にメタル・ラスを入れたセメント瓦というものを発明しているし,その若年ですら港のブロムナードに計画したモニュメンタルな街灯計画では電気技師との協同で電灯を据えているし,まだ市壁のとれていなかったバルセローナで,無防備な港風景すら描いているのである。 彼は幾何学の研究にその晚年を費やすが,幾何学は建築を複雑にするのではなく,建設作業を容易にするものだと考え,複雑な自然主義的な曲線を幾何学形に置換して建設作業の簡略化に努めている。(それをもっともよく表わしているのはサグラダ・ファミリア教会のガウディ没後建設の部分で,彼の幾何学応用のシステム化によって現在建設が可能となっているのである。)力サ・ミラの床のためにデザインしたパーケットも同様で,不整形な床面それに円柱,角柱などに対してブレファブ化が最大限に可能なような形状が考えられている。しかしガウディの場合,技術が空問構成を支配するのではなく,あくまで空問構成に助力するものとして技術があることが,これにも見い出せよう。もうひとつの大きな設計変更はファサードにある。それは図面上は現われない水平線の強調であり,塔と宗教的なレリーフの剝落である。水平線の強調は模型あるいはノミを入れる段階に,鉄筋が張られた時に変更され,この建物全体のイメージである海の波を水平線の強調に表現したのであろう。同様にバルコニーの肉厚な原案もコーナー部入口上のトリビューンを除いて実施段階では鉄細工に置き換えられ,海草を表現している。塔と宗教的なレリーフは,バルセロナにモ二ュメントが欠けることを嘆いており,これでもつて都市シンボル化させようと考えていたのであるが,塔は模型段階で削られ(理由は明らかではない)宗教シンボルは施主の申し出によって設計変更された。これはガウディをカサ・ミラの建設から手を引かせることになったほか,彼の人生のうえで大きな波紋を投げかけることになるのだが,これについては他稿で触れているので省略する。
構造は彼自身が言っているように,平面構成の変更が容易なように円柱で支えられたパーティション方式といえるものである。その柱も3種類あり,荷重の大小と計画上での断面の大小などにより臨機応変に使い分けられている。一番多く使われたのがボートランド'セメントで目地を埋めたレンガ柱で,断面を縮少したい場合には切石積み,それに時には鉄柱も使われた。これに鉄骨を架け渡して大梁とし,それに小梁を架け,更に平レンガを简状のヴォールト状に張り,下部に鉄筋で引張りを加えてスラブとしている。また円形パティオは図のような興味深い金輪がスラブを構成している。
後年ここを訪れたコルビユジエが「何と構造の凄まじい支配であろうか。」と言ったように,もっとも構造的な漸新なおもしろさは,パラボラ・アーチを連置して築かれた屋根裏階(現在の賃貸アパ—トメント,当時の使用人部屋)であろう。スパンの違いから,せいの高低を生み,曲がりくねってゆくさまは,人を鯨中のピノキォに変えてしまうのである。
この童話的なファンタジーは屋上の煙突群で頂点に達する。屋根裏階のパラボラ・アーチの高低差は屋上のスラブにそのまま起伏となってあらわれ,そこにエレヴエータ・タワーや階段室,マントルビースの煙突や換気用の煙突がさまざまな表現をつけられて並んでいる。この種の遊びはガウディの空問を特色づける大きな要素となっているものであり,我々がすでに忘れてしまったものでもある。バルセローナの前衛彫刻家スビラックスはカサ・ミラを「実現された最大のアブストラクト・スクラプチャー」と呼んでいる。
ファサードは無論のこと屋上の煙突をはじめエントランスの天井絵,バルコニーの鉄細工,波打つ天井,レリーフにゆれ動く建具,地・海・空を表現した床タイル,そしてそれらが生み出す柔らかな住空間のアブストラクト。しかもそれはガウディの人生と折り重なつたところから,テクノロジーにおし殺されることなく,既成の審美眼に犯されることなく,しかも人間が支配しえない自然の法則に調和して生まれたものであり,また今も多くの生活を包み込んで生き永らえ,生き永らえていくだろうところがおもしろいではないか。

A+U 7905より