サグラダ・ファミリア教会御受難のファサード

1882年3月19日,サン・ホセの日,当時のバルセロナ郊外サン・マルティン・デ・プロベンサルス市に「サン・ホセ崇拝者精霊協会」は一つの贖罪教会の最初の礎石を置いた。
この日の教会の記録によれば,「この贖罪教会は……聖家族の大いなる名誉と光栄のためであり,弛緩なる気力をそのなまぬるさから目覚めさせ,信仰を高揚させ,勇気と助力を仁愛に与え,国を憐れむ神に捧げる。…」。
これがサグラダ・ファミリア教会である。礎石の据えられたのは5エーカーの方形の土地で,今でこそ中産階級のの中層住宅が建ち並んでいるものの,当時はまばらに建った家、畑。そしていくつかの小工場があっただけであった。サン・ホセ協会の発足はそれより16年遡る1866年で,バルセロナで書籍業を営むジョセップ・マリア・ボカベージャ・ゲルダゲール(Josep Maria Bocabella Verdaguer, 1815〜1865年)の提唱によっている。
1874年頃、彼は信仰の発露を教会建設の建設に求め ,1881年12月31日、17万2千ペセタでこの土地を得たのであるが、教会の建設案はボカベージャのアイディアではナザレの聖家族の模型を持つイタリアのロレト(Loreto)のバシリカを模倣するというものであった。それを教区建築家に当たるフランセスク・デル・ビジャール・ロサーノ(Francesc P. del Villar Losano, 1828〜1903年)がネオ・ゴシック、ラテン十字、3身廊形式に計画を変更した。ところが、暫くしてこの教会がすべて讀罪によって運営されるため,協会と建築家の間に不一致が生じ,デル・ビジャルは辞すことになった。後任として教会建設委員会のジョアン・マルトレイ(Joan Martorell)はアントニ・ガウディ(Antoni Gaudí)を指名したのであった。1883年11月3日のことである。ガウディ当年31歲。
この時,すでにクリプト部分の建投は進んでいた。ガウディによる最初のデザインはサン・ホセの祭壇で,翌年の12月という日付けが印されてある。更に翌年の1885年のサン・ホセの日に丸天井が掛けられていないまに,最初のミサが取り行われた。1887年から98年は,アプスの壁尖塔,1891年から1903年まで御誕生のファサードの4基の尖塔、それぞれ1926, 1927, 1929, 1930年完成。ガウディ自信は他界していた。
ガウディの計画したサグラダ・ファミリア教会のプランはデル・ビジャールのものとも異なり,ラテン十字の5身廊形式で,トセブト部が3身廊。主正面からアプスまでの奥行き、95メートル。トランセプトの長さ60メートル、中央身廊巾50メートル、同高さ45メートル。側廊巾7.5メートル。同高さ30メートル。トランセプトと身廊の交叉部は170メートルの聖母マリアの塔を囲んで4聖人を表徴した塔。また三つのファサードにはそれぞれ4基の尖塔があり、12使徒に捧げられている。また三つのファサードを繋ぐように回廊がまわり、矩形をつくり,四隅には洗礼場と聖体礼拝堂、それに二つの聖器室がある。三つのファサードはそれぞれ御光栄(Façana de la Glòria東門), 御誕生)Façana de Naciment),御受難(Façana de la Pasió)と呼ばれ,各ファサードキリスト教の三紱つまり,信,愛、望と呼ばれる門(左から右へ)がある。
形態的には宗教的象徽と典礼の合理性を求め,たとえばスペインの教会堂の常である僧席を主正面と主礼拝堂間に置くことを止めていることや.主礼拝堂の裏側の巡回廊を閉鎖せず,柱で囲むことによって巡回廊とその周りの礼拝堂に連続性も持たせている。また、キリスト教の最大行事である聖週間の祭りにも教会内外、特に陣外にいる教徒陣内の聖歌隊とを結びつけるために,聖歌隊席をファサードの内面に傾けるなどということをしている。
構造,あるいは建設上の諸問題にも同じょうな合理性を求めている。たとえば丈高な身廊の横圧力に対する力学的解决を巨大なバットレスに求めず,垂直力との合力方向に柱を傾けることによって基礎へと受け継がせている。身廊円柱を見上げると,ちょうど樹のようで,雪をいっぱい被った木が,その枝の細さにもかかわらず支えているようなものである。また巨大な構造物を長期にわたって
建設しなければならない必要性から,それぞれの構成を構造ユニットとして考え,どの部分から建設がはじまっても,それぞれが独立した構造物として成立するように考えられている。
彼の膨大な計画は採光,照明,音響および楽器,彫塑,装飾,建築様式におよび,合理性に富んでいたという。ところが今や,明確にそれらを知ることはできない。というのもガウディ自身の手になる図面,模型が何ら現存していないからである。1930年代に入ってガウディの偉大さを認識した人びとが,その研究と栄眘のためにガウディ記念館を聖家族教会につくろうとした。資金も集められ,開館間際に教会側との折合がつかず、そのままスペイン戦争(19939年)に入った。教会はアナーキストの焼き討ちにあい,すべての作品はなくなってしまった。そこで一つの大きな問題が残る,サグラダ・ファミリア教会の現在建設中の部分は維のものかということである。ガウディの残した図面も模型もすでに現存していないのである。ガウディの残したのは,スペイン戦争以前に出版された研究害に含まれた図面であり,さらに弟子たちに口述された彼の論理である。(それらをたよりに計画を通めているという意味でサグラダ・ファミリア教会は考古学的建築といってよいだろう)。むろん,出版物の図面には限りがあり,口述の論理にも種々な解択があるわけである。この問題の建設中の部分というのが御受難のファサードである。
この点を,現在の教会の主任建築家ルイス・ボネ・ガリ(Luis Bonet Gali)氏はこう語った。「図面や模型のすべてをなくしてしまったのは,全く残念である。
しかし模型をどうやって再興するのか,我われは知らない。図面は新しいものである」。それでは芸術的遺産として未完のまま,教会を保存しておけばよいのではないかという考えもおこるわけである。1565年バルセロナ建築学校に端を発し,カタルーニャの知識人から,世界的に名を知られた建築家,芸術家を,この建設続行反対運動に巻き込んでいったのがそれである。その署名の中にはスペイン建築家ではボイーガス(Bohigas〉, コデルク(Coderch),ボフィール(Bofill),アルバ(Alba)それに画家タビエス(Tapiès), ミロ(Mirò),美術評論のシリシ(Cirici),亡命建築家セルト(Sert),ポンティ(Ponti),ゼビー(Zevi),ぺヴスネー(Pevsnar),ル・コルビュジェという名が見出される。その公開論争の教会建設委員会側の弁論は「現在のプランはすべてガウディの手になるオリジナルを基に正確に再現されている」、「作品の完成はガウディの望むところであった」、「議会は御受難のファサード建設認可には慎重にあたり,これを可决した」とあり,ピオ12世とバウ口 6世の建設続行に寄せた賛意でその弁論をしめくくっている。ところがガウディのオリジナルとはいつたい何なのかということがまずある。彼は時代の先駆者であつたので,考古学的作品など眼中になかつた。それは御誕生の門のファサードを下から上へみれば一目瞭然であろう。ガウディはその計画案とともに生きていたのである。こういう話が残っている。その頃スペインでは建築認可を下せる機関がマドリッドにしかなかったので,ガウディも出来上がった図面をマドリッドへ送らなければならなかった。ところがその審査は2力月かかった。そうしてせっかく認可を受けた図面なのに,ガウディは建設しようとはしなかった。彼にとっては2カ月という期間がすでに図面をただの紙片れに変えてしまっていたのである。またガウディの処女作であるビセンス邸(Casa Vicens, 1883-85年)では一室の壁を17回塗り直させたといわれている。
彼の設計の方法は二次元の図面からではなく,三次元の模型,あるいは,すでに建設の途上にあるものから完成に近づけてゆくというものであった。さらに悪いことには,スペイン戦争まであった模型ですら,ガウディの死の8年前に造られたものである。かつての「ガウディ友の会』の秘害力サネーリェス(Enric Casanelles)は「ガウディは,その精神において生きている。そのことが一番基本的なことなのである……。しかし誰が彼の精神を知っているだろうか……。教会の完成は若い建築家に委ねるべきである」という。さらに辛辣に建築家コデルクは言う。「聖家族教会で現在働いている建築家はみな現役ではない」。ともかく今年3月22日に御受難のファサード第10万番目の石が積み上げられた。今後の計画では今年度中に石工事を終了。 76年夏に尖塔を完成させるといわれている,鐘塔部分まで石造(完成されていない傾斜柱のポーチは鉄筋コンクリート。尖塔は鉄筋の入ったコンクリートで,表面は特殊なモルタルに表面加工を施したもので,これはガウディの使わなかった新しい手法である。尖塔はパーツに分けられ,地上でモザイクの張り付けまでされ,タワー・クレーンで引き上げ組み立てられる。中央2基は112メートル。外側のもので102 メートル。
聖家族教会に対するもめごとはなにも1965年だけではなかった。近くには1971年、遡れば1811年,1853年にも論争があつた。だが何よりも教会を守り続け,一つの人間の夢を完成させようと奮戦している建築家たちボネ(Bonet),ボアダ(Boada),力ルドネ ール(Cardoner), 今はなきキンターナ(Quintana)に敬意を表したいもの-である。


バルセロナに関するノート⑨
A+U 1975年1月号より