イルデフォンソ・セルダ

バルセロナの知られざる都市計画家

ガウディが死んで今年でちょうど50年である。この50年、出版物だけでも200に近い数がガウディについて出された。それは少なくとも何らかのガウディの生涯なり、彼の建築空間、あるいは芸術論を知る上で貢献したことであろう。ところが今年はバルセロナの都市計画家イルデフォンソ・セルダ(Ildefonso Cerdà)の没年から100年を数えるのである。
しかし、このセルダについては残念ながらほとんど無名であるばかりか、スペイン国内においてすら彼について書かれたものを見つけるのが困難と言える。これは必ずしもセルダの都市計画案の失敗とか劣等性を物語るものではなく、「世に起こり得るべく事」なのである。それは一重に情報の不足と研究者の少ないことによるものなのであろう。
ガウディにしても、ちょうど生誕百年を記念して「ガウディ友の会」というのができ、世界的な展覧会が巡回されたりしたことで、世界的に研究熱が点火されたのであり、それ以前は、一部の熱心な研究家はあったにしろ、やはりヨーロッパの片田舎の幻想の建築家以上の評価もされていなかったのである。
ところが、今回スペインの道路・運河・港湾技術士会の主催で「セルダ展」が開かれることになった。ガウディとセルダを同一視できないにしろ、セルダについてはいかにも情報が少ないために、この展覧会を通じてセルダについて書き加えておきたい。(というのはセルダとその都市計画案について「バルセロナに関するノート⑩」本誌1975年2月号で触れたからである)。

1. セルダとその時代
イルデフォンソ・セルダ・イ・スネェール(Idedefonso Cerdà i Suñer)は1815年12月23日バルセロナの地方都市ビック近郊に生まれた。その祖先は少なくとも15世紀からこの土地に居を構えていたといわれる。といってもセルダ家はだだ田園生活を送っていたわけではなく、バルセロナアメリカと取引のある商社を通じての投資事業をすでに2代前から始めていた。こんなこともあり、セルダ家はバルセロナや外国との連絡も密であり、セルダ家のイルデフォンソの兄である次男ラモンにしろ、薬学を勉強しにバルセロナへ出て、次いでリオン、パリ、ロンドンへ留学ということもできたわけである。長男のホセは家督を継いで、農業と資本投資を続け、次いで工業にも手を出したり、鉱業へも手を広げた。そういった兄たちの中に育ったイルデフォンソは初等教育を兄等と同様にビックのセミナリーで終え、ついで、兄ラモンを頼りにバルセロナへ出て(1832年)建築と数学を学び、後1836年マドリッドの道路工学校へと進むのである。ところがこの学校は、学校とは名ばかりで、校長を除いて3人の教授がいただけ、まだスペインに鉄道が敷設される前の話である。というよりスティーブンソンの試運転から20年を経た頃の話である。1841年にはその学校を出、道路・運河・港湾技術者の称号を得るのであるが、その間次兄には死なれ、父を亡くし、それから7年後の1848年には長兄をも亡くし、この古いセルダ家の後継者となり、莫大な財産と家名を相続するわけである。また、その頃(1849年)彼自身は道路技術者団というものを創り運営していたという。これはペリーの来日以前の話である。ところがこの道路技術者団は建設省の下部機関でもなければ何でもなく、自称・他言の非公認団体であったという。これから彼の死までほとんどの研究と活動は彼自身の財産から出たという。しかもその晩年には家財を全て使い果たし、娘のわずかばかりの稼ぎを当てに、国や役所への支払い請求に当てる日々だったという。ちなみに、今日まで残っているセルダの生家とその緑多き小高いセンテージャスの丘だけでも時価数億円以上というから、投資資本など合わせたらかなりの資産を持っていたはずである。
2.19世紀のバルセロナ
バルセロナ産業革命は他のスペインの都市よりいち早く18世紀の末に起こった。それと同時に1844年頃、セルダが都市問題に興味を持った時期、バルセロナはイギリスやフランスのどんな工業都市よりも重大な危機に直面していたという。衛生問題がその最たるもので、1836年から1847年は新生児より死亡者の方が多かったという。にもかかわらず、産業勃興は労働者の需要、それもアンバランスな社会的均衡を破っての必然的帰結として起こり、同期5万4千人余りの流動人口がバルセロナ市を悪化させた。1836年のバルセロナの人口が13万1千人で、その激増ぶりは想像がつく ,それが1851年までゴシック期にできた市壁内に住まなければならなかったのである。当時衛生問題は最悪の状態にあったわけで,1837年から47年の統計によるバルセロナ人の平均寿命は次の通りあった。

中産階級 職人 日給労働者
男子 38.83歳 25.44歳 19.68歳
女子 34.11歳 24.90歳 27.43歳

また、ヨーロッパ全域を襲ったコレラの住民千人に対する死亡率をみれば
リール(1832年) 10人
モスクワ(1831年) 15人
パリ(1832年) 24人
バルセロナ1834年) 29人

となっている。
やたらに統計ばかりになるが、労働者の賃金のうち54パーセントが食費に当てられ、食費のうち52パーセントがパンを買うために使われたという。当時、賃金が労働者の過剰な流入によって低下した反面、小麦粉の騰貴が続いたのである。同じくセルダの統計によれば1856年頃のバルセロナの平均労働者家庭、つまり夫婦に二人の子供の食事内容はとみれば、朝食―子供;パンくずと一杯の水、夫婦;パン一切れと塩付けのイワシ、昼食―豆400グラム、夕食―ジャガイモ1400グラムというものであった。こういったことが1848年の労働者決起、1855年ゼネストへとバルセロナを追いやったことであろう。とうぜん、これは住環境へともつながっているのだが、石造の本建築上に仮設住宅が建てられ、さらにそれもが多層化され、連結されたという。市壁の上にもそれは延長されつながっていたという。とうぜん、他地方からの移住者、工業集中人口は賃貸しのこれらの住宅にすまねがならず、それが平方メートル当りの価格ではなく、立方メートル当りの勘定だったという。このいわば蜂の巣状の住宅は、太陽が届くどころか、空を仰ぎ見ることすら不可能であり、さらに隣近所には工場の騒音と排気があった。
人口密度はセルダの統計によれば一室につき3.64人が生活していた(1859年)。以下は当時のヨーロッパの主要都市の人口密度である。
ロンドン(1858年) 86人/ヘクタール
マドリッド(1857年) 348
パリ(1859年) 356
リール(1858年) 411
マドリッド(1857年。公園を除く) 534
ビルバオ1860年) 546
ビルバオ旧市街 826
バルセロナ(1859年) 859

ちょうどセルダの没年ドイツ人Reinhard Baumeisterの出版した”Stadt-Erweierungen in technisher, baupolizeilicher und wirthschaftlicher Beziehung” (1876年、ベルリン)によると(ただし、ヨーロッパ中部だけについてのみの統計)
ケルンの市壁内 400人/ヘクタール
パルマ・デ・マジョルカ(1885年) 416
アムステルダム(運河も含む) 500
ハンブルグ(1874年の旧市街) 555
ビルバオ(1869年) 585
ロンドン・全市 100
ロンドン・シティ 454
ベルリン(1873年全市) 151
ベルリン・旧市街 286
ベルリン・スパンダウ地区 588
プラハ(1874年市壁内) 286
プラハ旧市街 476
プラハユダヤ人街 1428
パリ全域 111
パリ繁華街 322
パリ繁華街中心部 714

以上でみるとプラハユダヤ人街区が1428人/ヘクタールという高密度を示しているが、バウマイスターの統計以前にセルダがやった1859年の統計によれば、バルセロナのある地区は1724人を数えていたのである。この数字はヨーロッパで示された最高値ではなく、1876年のバウマイスターのリヴァプールによる統計が222人、ところが1884年の王室の公式調査で明らかにされたところによれば、同市の労働者地区が2989人/ヘクタールというから、極めて高い数値を出している。また近年に至っては1934年GATCPACがCIAMの第4回会議で発表した数字によると、バルセロナの第5地区というのが1025人で同会議出席31カ国中では最高値であったという。また、同GATCPACの明らかにしたところによると、バルセロナ旧市街の年間死亡率は15%に達していたという。

3 解決の可能性
幼少のセルダにとってはいかにバルセロナマドリッドでの都市生活が煩わしい、また苦しいものであったかは想像がつく。ところがその反面、セルダは都市生活を窮地に追いやった産業革命蒸気機関に対しては必ずしも悲観的ではなかったばかりか、蒸気機関の応用は人間の歴史の新しいエポックの週末とその始まりの原動力であると言っているように楽観的なものである。ちょうど1855年、垂直シリンダー式の凝縮器のない蒸気機関が完成、それは、たとえばセルだが1835年マドリッドの道路工学校への入学のために必要であった旅程が1週間であったのを、34年後の1869年の鉄道の開通で21時間35分に短縮することを可能にしたのである。
なお、現在は特急で8時間ぐらいなので百年以上たったのに大きな変化はない。(2011年12月現在では新幹線AVEで最短2時間30分になった)もっとも飛行機というのは別である、さらにこの鉄道というのは旅程を短縮や快適さを提供したばかりか、運搬量の上でも飛躍的な進歩であった。つまり駅馬車がせいぜい12人の乗客なのに鉄道は1870年頃には240にい前後を乗せて走っていた。実に20倍である。積載量からすれば、牛が引くのが約460キロであるのに対し、24のワゴンを引っ張り300倍以上である。
彼は明らかに蒸気機関、あるいは機械文明に対しての将来の発展を見抜き、さらにはそれを都市計画の中へと導入しようと考えたのである。
4.セルダ案
セルダの都市計画の理論はその大著『都市計画の一般論』(“Teoría General de la Urbanización” 全3巻, 1867年)に提示してある。それは大雑把に言えば「家族内における個々の独立性」、「都市内における家族の独立性」を大きな特徴としている。つまりは充分な大きさのブロック単位と、建物の棟間隔、そして都市自体の拡張性ということで、その結果、この画期的な超工業主義的な都市計画が作られた。
セルダ案によれば、3ブロックが400メートル四方、つまり1ブロック単位が133.33メートルx133.33メートルとされ、建物はそのブロック内の2面だけに建てられることになっている。このグリッドは20メートルに道路がとられ、うち両側5メートルは歩道にあてられ、ブルックの隅部は削られて全体としては8角形となり、道路の交差点は一辺20メートルの8角形を形成する。交差点には電気時計がすえられることになっている。「時は秒単位、間隔はミリ単位、時代はすべてを勘定に入れ、すべてを計算し、すべてを有効に」(セルダ)。中心を持たせない。あくまで均一性を目指したため、用途地区も市心も見当たらない(ただし、モニュメンタル、あるいはセンチメンタルな意味、また、現実的な意味でも旧市街は数本の軸を通すだけで保存し、極力分散化にも努めているようである)。工場にしろ棟間隔の充分な取り方で住産共存の公害化を防ぐよう考えられている。具体的には建物の棟間隔は道路側では20メートル。パティオ側では約70メートルの間隔がある。また都市拡張、つまりグリッドの延長に伴い起きる都市交通の問題も、馬車に替わる新しい都市交通システムの出現を予想していた。ブロックの隅部を切ったことでもそれは理解できよう。また、新システムの出現を予想していたがゆえの的確な都市計画をセルダは提案していたのである。
約百本の樹がブロック内の両側の建物の間(36本)と周囲の歩道(8メートル間隔に計56本)植えられ、それとは別に個人庭園もパティオ内につくられる。また公園内は400ブロック単位に1つの割合で作られ、別にモンジュイックの丘とベソス河流域の森林地帯をそのままに保存することで自然公園化している。階高は5階に制限されている。

5.その分析
「人間の行為の産物というもの全ては,それを作った人の熟考の意に,そうでなければならない理由がある。偶然とかいうものは我々が疑を持つ,あるものを説明するためには容認できる。しかし,決していかなる概念をもってしても入間の行為を我々に満足げに,あるいは哲学的に説明しえないのである。そしてあるべきものは,あるものの存在の理由と概念の研究であるが、それはいつも見出されるものではなく研究を要する。ところが,怠惰は研究作業を妨げる。すべてに簡単に妥協する。そして,偶然を持ち出して満足するのである」。(セルダ)
というセルダ自身,裏を返せば,彼のいかなる計画案,たとえ一つの線であろうと,根拠のないものはないのである。彼の友入,そしてセルダがつくっていた「バルセロナ拡張奨励協会」の事務官をしていたアンへロンによれば「セルダは決して第一印象で物事を判断しなかつた。彼のテクニカル・ヴォキャブラリーに偶然という言葉は存在しない」という。そして「セルダに軽卒なイマジネーションに頼るということはなく,すべてその前に厳密な計算に基づいている」という。そして,当時の雑誌『公共建設の誌』の編者によれば「彼には一つの線すら根拠のないものはなく,その存在の理由のないものはない」。
セルダ案はほぼ海岸線に沿って平行にダリッドが引かれている。全体は大きく三つの20X20ブロックに分けることができ,それぞれは海岸線に対して並列に並べられ,中心軸のように幹線道が走っている。それぞれのブロックに引かれた,これらの幹線道によってさらに大ブロックは10X10ブロックに分けられ,ついで,それを四等分した5 X 5のプロックにと細分されるようである。(これらは現在の市内交通の現状からみても証明できそうである。プロトタイプ化したセルダ案に引かれた5本の大路を重ね合わせると,これまた幾何学的な一致がみられる。さらにはほほ'確実に教会の位置,公設市場の位置,都市公園の位置,病院の位置といった公共施設が割り出されていることがわかる。これらの数は,教会(住民のコミュニティ・センターとしての)25ブロックに対して1,公設市場が100ブロックに対して1,都市公園力;200に対して1,病院が400に対して1の割合で算出し得る。また,人工密度はほぼ250人/ヘクタールである。都市内交通については先に述べたように,セルダは「建築物と交通とは互いに関係を持ち,分かちえないことである」といい,新しい都市内交通手段の正確な予測をしていたようである。つまり,各ブロックの角が落され,それも道路幅20メートノレに対して,同一の陵辺となるように20 メートル分だけ切っている。中央をロータリーとすることで,動線の交叉をなくしている。《図"ただし,現在は一方通行となっているため,このモデュールが崩されてシステムが都市を締めつけている結果となっている。市内には複線の鉄道と市内電車が道路交通物とは別に考えられ,これらに海上交通を含めての一大拠点が考えられている。
「ブロックは建物の基本的集合体である。なぜなら,もっとも原型で自然な個体が家であるとするならば,これはほんとうにまれに孤立した,そして独立した単位として存在しうるものにでくわすのである。というのは,家とは他のコンビネ一シヨンとともに一般に働くからである。つまりは,ブロックとして形成するゆえんがここにある」(セルダ)とコミュニティの問題をとりあげ,住宅の集合化を説く。そして,「個人的興味の気紛れからくる無人の家の不可能さ……そして,法律や法規によって,ブロックの形成を立法化させる。そのブロック形成により,全ての建設者に完全に同一となり,つまり法の前に全てが平等であるようにである。この場合,ブロックをある形態にプロトタイプ化するのは不可能であり,それよりは四角を受け入れた方がよい」。「そして,完全な独立性とプライヴァシ一が保たれるようなコンディションをブロック集合体は持たねばならず,それには巨大なパティオ,というより庭をそれぞれのブロックが持たねばならない」。(セルダ)-とはいえこのブロックの概念,それも四角いダリッド状のプロックをすぐさま考え出したのではない。まず,当時入手できうる市街地割の各国の例を彼は手に,そのうえ,スペインで当時研究されていたプロックの方法を試行した。
(図11図の左上より時計回りに:ブエノスアイレス(1583年),メキシコ(1750年),パナマ(1600年),キューバ(1768年),USA(1784年)、ペルー(1780年)、ロンドン(市外)、ロンドン(新建造物),ロンドン(市内),ニューヨーク)セルダは,とくにスペインの南アメリカ植民地時代にスペイン自身が建設した数々の街が,その後数世紀も経てその機能を失わないでいたことに気付いていた。セルダばかりでなく,英国人ジエイムズ・ヴェツチュ(James Vectch,1789 〜1869年)はメキシコに10年近く滞在し,エドウィン・チヤドウイック(Edwin Chadwick, 1800〜1890年)の協働者として,バーミンガムの拡張計画に参加したが,それも南アメリ力の植民地都市からヒントを得たものという。また,スペインでもマドリッドでセルダとほほ'時期を同じく,都市計画案「線状都市」を提案したアルトゥーロ・ソリア・マタ(Arturo Soria Mata, 1844〜1920年)にしても青春期期をキューバとブエルト・リコですごしている。
セルダは南アメリ力の植民地都市以外にも,ニューヨークシャーとロンドンの都市計画についても知識があり研究したことが考えられるが,いずれもその予備計画案〖図にみられるように,ブロックは矩形である。当時,スペインにおいても矩形のプロックが一般化しており,ビーゴのホセ・マリア・ペレス(José María Pérez Carasa, 1889〜1962年)による新市街計画案(1853 年)のブロックも43x100 メー トルという矩形であり,バルセロナにしても先例としてあるバルセロネータ地区(1753年〉の極端に長い矩形がある(約6 x100 メ-トル)。
どのようにして,セルダが方形のブロックにたどりついたかは明らかではないが,明確な理由として,均一性,成長の無方向性が正方形にはあるからである。このブロックによれば,道路幅は20メートル,うち車道が10メートル,そして歩道が両側合わせて10 メートル,またブロック内の面積割は建築面積28パーセント,通路面積30パーセント,空地面積12パーセントとなっている。建物の奥行きは20 メールであるが,セルダ案の成立経過をたどると,15 メートル,17.5 メートル、そして20メートルと、最終的には1859年のセルダ案になるが、「バルセロナ拡張奨励協会」でセルダが実現させた建物の奥行きは24メートルあった。おそらくこの4 メ—トルの増加分はセルダのいう小さなパティォのある住宅論から外れるようであるが,施主側からの要求に勝つことができなかったのであろう。あるいは当時4 メートルという寸法の違いがどれだけの重要性を持っていただろうか。
ラウリア通りとコンセホ・デ・シエント通りの交叉点の建物は施主が「バルセロナ拡張奨励協会」であり,その社長であったセルダが,この建物に関係していたことは想像がつく。この建物は奥行き10 メートルで,角地にCの字型に建てられ,オーナメントのない,シンメトリカルな建物で,いかにもセルダの作品らしい。というより,そうであろう。プランを見ると中央には廊下が走り,それを軸に線上に住宅が配置されている。それは間仕切り壁だけで簡単に分割でき,また改装できるという非常にフレキシビリティに富む空間で,家族の増減にも簡単に対応できる。ファサードにしても,そのきわめてシンメトリカルな窓の配置は内部空間のフレキシビリティを損わさせないためであろう。また,全ての戸,扉は壁の内に建て込んであるのも空間の増減において障害物とならないためであろう。
他にもセルダが突現させたと思われる作品はラウリア通りの住宅で、現存する図面からすると,施主イルデフオンソ・セルダ,建築家レアンドロ・セラャック(Leandro Serrallach)である。
セラャックはセルダの会社で協働していた建築家であり,この家の設計者であるかのようだが、セルダに建築家の称号を貸したものと考えられる。この家は1864年に建設され,やはり建物の奧行きは10メ—トルである。(写真は)セルダ案の最大の建築への実現化は何といってもパティオ側のファサードのデザインである。それは鋳鉄の柱、鋼の梁、そしてガラスと木の窓で,合理化し,単純化し,モデュール化したギヤレリーである。それらはバルセロナの都市拡張が始まった時期に建設された建物に始まり,モデルニスモの建築家たちに受け継がれ,機能主義者建築集団GATCACへと続いて使われていった。とくに,華麗な正面ファサードを競ったモデルニスモ期の建築家達,ガウディ,ドメネク・イ・モンタネル,ブーチ・イ・カダファルク等の裏正面ファサードの単純で明快なデザインに見るべきものがある。

6. セルダの後継者
セルダ案の後継者としてもっともすぐれた人物はペドロ・ガルシア・ファリァ(Pedro garcia Faria, 1858〜1927年)である。彼はエンジニア兼建築家で,若い頃から衛生問題に興味を持ち,政治問題から都市改造のボス的立場にまで立った人物である。
24才でバルセロナ学芸協会の科学,自然部会の部長となりそこで講演をした。その講演は後に『1884年バルセロナの衛生問題の記録』として出版されたが,それ自身セルダの統計をもとに研究されたテーマであった。この最初の仕事から後の絶頂期の仕事,つまり1893年出版の『バルセロナの地下衛生のプロジュクト』まで合わせて12の出版物をその10年間に出している。
この最後のプロジェクトこそセルダの果たしえなかったものであり,かつ必要なものであった。彼はバルセロナの地質に精通しており,この下水処理を作ったのである。それには自動処理のシステムが開発されて,バルセロナの全ての下水槽に充分なだけの人鼋の水の流通に支えられたもので,そのうえゴミ処理の方法の計画案も出した。それは各々の家の人口脇に設備された垂直ゴミ投棄筒であるが,地下ではワゴンによって収容されるようになっている。
また他にもバルセロナ近接の湿地帯(5000へクタールに及ぶ)の広大な畑の研究もし,バルセロナ巿の拡張に更に10キロメートルの可能性を与えた。私(筆者)の現在住んでいるところもその延長上にあり,彼の基礎的な研究あればこそである。また,その後,1930年代にはGATCPACのグループによって,この一帯を大々的なバルセロナのリゾート地帯にしょうという計画がある。それはコルビユジェとGATCPACによって計画された「マシア計画(Pal Macià)」 である。これはセルダ案の均一性を尊重し,グラン・ビア通りに活力を加えて,カステルデフェルス市(バルセロナから約20キロ)へとまで連結させようというものである。
セルダのブロックを9倍,つまり3ブロックX3ブロック集めたモデュールで,自動車によって変えられた都巿スケールに対処しょうとしたもので,この3 X 3ブロック単位の道路は両側を歩道,そして中央が2重の車道になっている。この大ブロックには対角線にブロック内の歩道が引かれ,マッシヴな20階建の集合住宅が計画されている。この集合住宅はピロティを持ち,ほとんどコルビユジェの現代建築の五大原則を具現化しているようなもので,サン・アンドレゥに一部実現された(曰本建築学会編『近代建築史図集』,新訂版,64頁写真2参照)がスペイン戦争の敗北に継続できずに終わり,現在増築が加えられ,意図しょうとした空問構成を損ってしまった。また近年ではコデルクがその集合住宅コチェ一ラス(本誌I976年2月号「特集 J.A.コデルクの作品16題」110頁参照)で小規模ながら新しいモデュールのスーパーブロックの提案をバルセロナへ提示している。

イルデフオンソ・セルダ年譜
1815年12月23 日バルセロナ,ビック近郊センテージャスに生まれる。
1832年バルセロナへ出,数学と建築を学ぶ。マエストロ・デ・オブラ(建築技術士のようなもの)のコースに学ぶ。
1835年道路・運河・港湾技術学校へ人学のために9月マドリッドへ立つ。
1836年病気と経済的問題(戦争中で家族は送金できなかった)にもかかわらず道路・運河・港湾技術学校へ入学。
1839年経済的困難難続く。
1841年卒業。ムルシアへ県庁の仕事のために送られる。
1842年道路設計のためタラゴナへ。
1844年父亡くなる。南フランスへの旅で,汽中をはじめて見る。
1846年バルセロナとサン・ファン・デ・レス・アバデエセス間の鉄道施設を設計計画する。テルーエルの道路を計画
1847年一級技術士に昇格。バレンシアの水道給水の監督官に任命される。
1848年兄がなくなり,家督を継ぐことになる。マグダレーナ・クロティルデ,ホッシュ・カルボネル(1829年生れ)と結構。
1849年県道設計依頼を受けるためにジローナへ。11月,道路技術者団設立を要求。
1851年進歩派としてバルセロナ県で立候補。当選。
1854年11月バルセロナ市の理事となる。12月政府軍の少佐の地位を破棄する。
1855年プロレタリア委員会の代表委員としてマドリッドへカタロニアの現状報告に行く。11月,バルセ口ナ拡張予定地の地形図完成。市の経済的援助なしで成しとげ、金メダルをもらう。12月,バルセロナ市はセルダをマドリッドへ送る。地形図を政府に提示する。
1856年雑誌『公共建設の誌』がセルダの地形図を発表。
1859年勧業省セルダ案を認可。以降数年問バルセロナではセルダ案についての痛烈な議論が起こる。
1860年王命により,マドリッドの都市改造計画の実現のため研究が必要なことが公布される。
1862年市内警察,および公共建築諮問委員会によりセルダのマドリッド都市改造計画の研究が認められる。
1863年政府は国費で『バルセロナ拡張計画』の出版。3千部刷る。
1864年バルセロナ拡張奨励協会」会長となり拡張予定地の約20万平方メ一トルを手に入れる。
1865年バルセロナの経済発展のための計画書を発表。
1867年『都市計画の一般論』の第1,2巻がマドリッドで発刊となる。ところが第3巻は理由がわからないが,発刊にならなかった。
1868-73年バルセロナ県庁の副知事となる。その間海岸測量図,バルセロナ県の県道地図,地名表の作成をする。
1876年8月21日没(サンタンデールにて)。その友人の言によれば,それ以前にマドリッドへ引越した(政府へ報酬の請求のため)。彼の晚年は言語学と語源学の研究のために費されたという。

このセルダ展はバルセロナの大学において今年3月〜4月に開催され,次いで5月6月をマドリッド、レテーロ公園のゴヤ館(Pabellón de Goya)で催され,セビージャ、サンティアゴ・デ・コンポステーラへと巡回された後、パリ、ニューヨーク,ロンドン,プリュッセルからの召喚がある。展覧会の計画はほぼ一年前から準備が進められ,私自身もこれに閱係していたため、何枚も計画の図面を引かされた。その予算の多さ(約2千5百万円),そして規模の大きさ(使われたパネルは2 X 3 メートルで80枚以上,使った印画紙が1000平方メートル近い)からいつても,建築関係,少なくとも都市計画家個人を扱った展覧会で最大のものであろう。展覧会の会期中には週2回講演会があリ、4枚のスクリーンを同時に使ったスライド映写があり。40分の16ミリカラー映画「セルダ,その偉大なる失敗作」がつくられた。本稿はカタログとして出された191頁、20 x 24.9センチメートルをもとに書き加え,後半の碁盤目の伝統」「傾向の系列」「今日の問題を削ったものである。カタログのテキストはガウディの研究からモデルニスモ都市の研究をしている。
また、この展覧会のオーガナイザーである建築家サルバドール・タラゴそして、マドリッドの線状都市のアルトゥーロ・ソリアの孫に当たるエンジニア、アルトゥーロ・ソリア・プーチ他によって書かれた。

A+U 1976年11月