ガウディの謎 知られざるガウディの作品

1928年,ジュネーヴ国際連盟会館のコンへの最中であった。建築についての(すぐ後に『住居と建造物』として刊行された)の講演をするためマドリッドの大学都市へ呼ばれた。マドリッドでホセ・ルイス・セルト(当時はこの男が誰であるのか知らなかったが)のサインのある一通の電報を受け取った。それによればマドリッドからポー・ボウへ行く途中、夜10時にバルセロナの駅に寄って,一刻の猶予もなく,街のどこで講演をするようにということであった。
バルセロナの駅では5, 6人の若者が私を迎えてくれた。皆背は低いが活気に満ち、エネルギーに溢れているようであった。講演をした。即席である。
翌日シッチェスへわれわれは行った。街道でひとつのモダンな家が私の注意を引いた。ガウディである」Le Corbusier著, Gaudi、1958年、Barcelonaより

このシッチェスのモダンな家というのがガラーフのポデーガ・デ・ガラーフ(Bodega de Garraf), またはボデーガ・デ・グエイとして知られている建物である。ガラーフはバルセロナから30kmほどの所にある。小さな漁村で、石切場があるが、役場、教会すらないので隣のシッチェス市に行政上、教区上は併台されている。現在人口は50人ほどである。夏の人口が十数倍に人を膨らますとはいえ、シーズン・オフは静かなたたずまいの中にヨット・ハーバーの建物だけが風になびくのが眼にくだけで、他にこれといつた特徴も面白味もない村である。その村はずれ、バルセロナから車を飛せば、いくつものカーブを切ったあと、突然目に入るのが、この建物,ポデーガ・デ・ガラーフである。中世紀のアラブの城跡、前方を海に面したところに建てられている。ところがこのガラ一フのボデ一ガはガウディの作品とはされていないのである。どの文献を見ても出てこないばかりか,ガウディの作品はすべて国の文化財に指定されているにもかかわらず,これは指定を受けていない。つまり公にはガウディの作品とされていないのである。ではコルピュジェはなぜ書いたのか,「ガウディの出現」と。セルトというバルセロナ人がいて起こりうる勘違いでもない。ガウディ風の建物と言っているわけでもない。はっきりとガウディと言っているのである。


1 発端
バルセロナに関するノート?ガウディその周辺をレポ一トするために(A+U 1974年5月号掲載)ガウディの弟子と呼ばれている人びとの伝記を掻き集めたのであるが,そのとき浮び上ったのが,ベレンゲ一ル,ジュジョール,ルビオ・イ・ベズベルらであった。特にベレンゲールは中でも第一人者と目される建築家であり,ガウディより若くまた先に世を去った高弟として,その死をガウディ自身「片腕をなくしてしまった」と嘆いている。そのべレンゲールの処女作といわれているのがこのガラーフのボデーガである。しかしボデーガの現代性は,コルビュジェが見た時より45年も後の今日でも,つまり建設時よりすでに90年近くになろうとしているのに,失われていない。だがベレンゲールのボデ一ガ以降の代表作というのがないのである。これは少々不自然ではないだろうか。彼のその他の作品にはモダンというよりむしろ時代を感じさせるものがほとんどなのである、ここに当然ひとつの疑問が湧いてくる。ボデ一ガはこれまでいわれてきているように,ベレンゲ一ルの作なのだろうと・・・・。

2 ボテーガ・デ・ガラーフ

このボデ一ガは二つの部分から,つまり倉庫と管理人小屋とによって構成され,両者は腰壁で結ばれている。管理人小屋と門は煉瓦と石の組積造で,門には鉄の門扉がついている。門に取り付けられた垂直材から直角に,つまり水平にキヤンティレヴァーのように伸びた梁に45度に細いワイヤーによって2垂直軸上部から支え,逆に垂直軸の最下部からは網状に張られ矩形の部分を対角線で切るように材が伸び,それでつくられた3角形の下部は門を開閉するたびにゆらぐようになっている。水平材には忍び返しが細工され,それがガウディのベジスグアルド邸の門扉を連想させる。門のアーチはガウディ得意のパラボラ・アーチである。門をくぐると今は休暇用の賃貸アパートになっている主屋がある。こちらのほうは石造で,まず四つのパラボラ・アーチが目に入る。左手が母屋で,右は今ではチャンピニオン栽培場となっていて、中央にあるのは煉瓦造の建物と主屋とを結ぶ渡り廊下である。この渡り廊下の右には煙突,左には鋸梁がついている。主屋の下部には大きなアーチが口を開け,今でこそ車がそこを埋めているが,馬小屋となっていたところで、アーチの右側には乗馬の時便利なように壇が付けられ,手綱を繋ぐリングが壁に打ち込まれている。主屋は3層になっていて,まず主階は三つの部分に分かれ,馬小屋、大部屋、そして小玄関付きの5部屋ある住居部,階段は二個所にあり,
上部は二分され,一方は5部屋ある居住部そして他半分は大部屋になっている(ただし現在は問仕切され賃貸しされている)。そして両部分を結ぶ通路がブランからはみ出してつくられ,外部からはそれがアクセントとなっている。住居部端にはパラボラ・アーチが壁に大きく開けられて,バルコニーとなっていて,夏期の居問となるように計画されているが,また見事に外部空間と内部空問とを結んでいる。そのアブローチのおもしろい階段を登ると最終階に出る。10本の柱によって屋根を支えた小さなギヤラリ一のようなものがあり,それがこの建物を一層軽快なものにしている。石造というよりは木造あるいは軽量鉄骨構造のような軽々とした屋根の支え方は明らかに作者の非凡な才能を示している。ギャラリーの奧,そこは礼拝堂となっていて,長方形の平面を二分するように中央には祭壇がある。2階と同様ここも平面を破り左方に通路が出,それが祭壇で二分された部分を結んでいる。ところがこの祭壇裏にある木製のアコ一ディオン・カーテンを開けると、2部屋は一体となるのである。というのも,祭壇自体が透かし造りになっていてアコーディオン・カーテンの開閉によって両方からミサに参加できるつまり、キャパシティーを調整できるという多用性を持ち,建築史的には,周歩廊と祭壇の融合というカタロニァ・ゴシックの流れを受け継いでいるといえるかもしれない。祭壇の透かし造りを実現させたのは鉄細工のすだれであり,入口門のそれと同系統である。
またこの建物のおもしろさはその三角形という恐らく比類のない断面にある。屋根がそのまま壁となって地面にまで達しているのだが、さらに一方の端では柔らかい外側へのそりがついて外形のユニークさと同時に内壁の上昇からくる閉鎖感をうまく解消している。そして三角形を跨ぐように煙突と礼拝堂の小さな鐘塔が単調なファサードに節を与えている。

3 ボデーガ・デ・ガラーフの評価
ではボデーガ・デ・ガラ一フはこれまでどう評価されてきたのか。「個性的で同時に風景の素晴しさに順応した作品」(Ràflos, 1926),「彼の最高の作は疑いなくボデーガである。表情溢れる見事な統一とすべてのエレメントのオーガニックな統合によって,あるいはその信じられないまでの現代性によって驚かされる」(Bohigas, 1968年)、「先の建物の壁と屋根は構造的に純粋で個性的なヴォールトに大胆に結託してひとつのプロックとして扱われている」(M.I. 1954年)、「ガラーフのボデ一ガ・デ・グエイは師の作品としてたびたび解釈されてきた。事実ガウディ風の手法による大胆な解决法,構造的詳細,そして構成によってそうである価値を備えている」(Martinell, 1967年)
一様にボデ一ガを称えているうちでマルティネイが,これはガウディの作ではないか,と仄めかしているのは興味深い。マドリッドの建築家協会の公刊誌"Arquitectura“誌に書かれたAmás Salvadorの「ガウディの回想」(IX巻, 1927年, I6頁)には「われわれの非常に熱心な(ガウディとの)会見はガラーフへの訪問のすすめとともに終わった。その時にはそれは果たすことはできなかったが,後で実現できた。……ガラーフでの作品は私を刺激させた。ガウディのすべての作品がそうであるように……」とある。

4  ボデ一ガとベレンゲール
ではいったい,ボデーガとベレンゲールはどこで結びついているのであろうか。それは一冊の出版物,ラフォルスの"Gaudí”である。それはガウディについて最初に書かれた本であり,また著者自らサグラダ・ファミリア教会で文書保管役を務め、建築家としてよりも建築、美術の評論家としての経歴からも絶大な信頼が置ける。しかもこの本はガウディの図面,スケッチ, 写真をはじめほとんどすべてガウディと関係のある物が焼失してしまった後,最も信頼できるドキュメントとしても珍重されてきた。現在のサグラダ・ファミリア教会の受難の門の建設すらも多くをこの本によっている。オリジナルは焼けてしまったが、この本を作るのに撮影した写真のネガが残っていたのだ。
ラフォルスの" Gaudí”には偉大なる弟子としてベレンゲールに一章が捧げられ,多すぎると思われるほどのボデ一ガの写真を載せていて巻末の年表には「アントニ・ガウディによる作品と憶測されるが彼の指揮によって実現されたものではないもの」という個所があり、そのリスト中には「フランシスコ・ベレンゲ一ルの大多数の作品における徴候と達成」とわざわざ念まで押してある。それ以降ボデーガはベレンゲールの作とされ,われわれは今までこの一書に頼ってきたわけなのである。
確かにラフォルスのサグラダ・ファミリア教会での文書保管という経歴はその信頼を置くにふさわしいものであるし,事実信頼もおけよう。しかしながら同時に彼はボデーガの建設を目縕したわけでもない。これも事実である。ボデーガの建設年代は1888年から90年頃と考えられるのに対し,ラフオルスは1889年生まれ,またべレンゲールは彼の25才の時に他界し,ラフォルスはその2年後つまり、1916年まで学生であり,ラフォルスとベレンゲ一ルの個人的関係すら危ぶまれる。また場所といい時代といい建築許可申請をしたことも,図面すら始めから存在していなかつたという可能性も考えられるので,恐らくはラフオルスは師ガウディからの口述によってベレンゲールとボデーガを結びつけていたのであろう。ガウディはベレンゲールのそのことに対し否定できないような理由もあったのである。

5  探索
こういった疑問も文書なり図面なりが残っていれば一度に解决するわけであり,まず所有者を探すことにした。これは別名ボデ一ガ・デ・グエイとも言われるようにグエイ家のものであることはすぐにわかり,現所有者がガウディのパトロンであったグエイ伯の曾孫にあたる方であると知った。
残念ながらグエイ氏を尋ねたものの,文書類の保管はないということだった。これでほぼ記録類からの確証はつかめないことになった。その後,念のためガラーフの管轄の役場であるシッチェスの建築課を訪ねてみたが,スペイン戦争以前の図面,文書は何ら保存されていないということだった。それにガラーフという辺地では申請をしたとはやはり考えられない。
ところがグエイ氏との話でボデーガに生まれ育ち,今もその管理をしている人がいることが分かった。
数日後,グエイ氏とガラーフで落ち合い管理人ホアキン氏から話を聞くことになった。ホアキン氏は50代の半ばで,直接にはボデーガの建設の経緯を知らないが,初代のボデーガの管理人は彼の父親であり,幼い頃から聞かされた話があり,それは「ベレンゲールという若い建築家がこのボデーガを設計した。その基礎工事のある日,ガウディと連れだってやってきたべレンゲールは図面と工事の進行を説明した。ところがガウディはその設計が気に入らず,その場でベレンゲールの描いた図面を破り捨ててしまった。その後ガウディは幾度かガラーフを訪れた」というものである。
もっとも当時の記録写真も文書も彼は保管してはいなかったが,話としては興味あるものである。
結局はボデ一ガ・デ・ガラーフがガウディの手になるものであるといういかなる物的証拠も見出せなかったわけであるが,ベレンゲールのものであるという確証も同様ないのである。

6 1888年頃のガウディ
別の視点からこの建築をみてみることにしよう。1888年頃ガウディはいつたい何をしていたのだろうか。パラシオ・グエイの建設(1885〜89)を始め,以下次のような作品があげられる,アストルガの司祭館(1887〜94年)、サグラダ・ファミリア教会アプス部(1887〜93年), カディス海洋博トランス,アトランティ力社パヴィリォン(1887年),バルセ口ナ万博トランス・アトランティカ社パヴィリオン(1888年)、サンタ・テレサ学院(1889 〜94年)一方ベレンゲールは1887年,21才で建築学校を退いているので,この建物は処女作にあたるわけで,経済的理由からAugust Font(1846〜1924、 主要作品はスペイン広場の闘牛場)のもとで午前中働いていた時期で,その後1892年にはグラシア市の巿の建築家Miquel Pascual(?-1917年)のもとで働いていた。そのため後にベレンゲ一ルの作として認められたアパートやいくつかの公共建築はこの時期になされたものである。そのうちラ・リベルター市場が1893年の日付で最もボデ一ガのそれと近く、次いで1900年グエイ伯のエル・ボアルの家,1904年のグエイ公園内の家,そして1909年のオロ通り地のアパートなどが,これまでベレンゲールの手になるものと知られる代表的な作である。
周知のようにべレンゲ一ルは終生建築家の称号は得なかった。21才の時,結婚による生活上の問題から学校を退き建築家のアシスタントとして生計を立てねばならなかった。だが午後はガウディのもとで費やし, 彼の建築への情熱や愛情は捨て去っていないのである。こういった事情を全て知っていたのは他ならぬガウディ自身であった。ここで推測が許されるものならば,ガウディは仕事のないベレンゲールに仕事を与え,手を貸したということである。それは作品の系譜から見ても明らかであり,後に試みた分析からも明らかであり,管理人ホアキン氏の話とも一致する。

7ーガラーフとグエイ伯とガウディ
ガラーフとグエイ伯爵、そしてガウディとの関係は,パラウ・グエイの建設開始つまり1885年あたりから明確になる。グエイ館の石切り場はガラーフである。ところがもうひとつ1882年の日付のガウディのサインのあるプロジェクトがある。グエイ家のための狩猟小屋がそれで,場所が他ならぬガラ
ーフであり,この実施案がボデーガとも考えられるのである。プロジェクトはカサ・ビセンスやグエイ・パヴィリォンと傾向を同じくし,イスラム建築から直接受けたインスピレーションをもとにしている。外壁を囲むギャラリーがあり,幾何学的な細部のモチーフ,いくつかのそして大きなシンボリックな塔(こちらのほうは学生時代傾倒していたゴシック様式の名残とも考えられる)。またこの図面からすると建築材料は楝瓦と石を組み合わせたもので,この時代のガウディの好んだ材料である。その後の聖テレサ学院にもこの方法は使われている。そして偶然かどうか,ボデーガ・デ・ガラーフの門と管理人小屋が同一材料,同一構造である。


8 "g”の謎
もう少しボデーガ・デ・ガラーフをみてみることにしよう。まず平面からみると,一階の海側の住居部に田字型のプランがある。注目したいのはこの交叉部であり,サロンから三つの隣室へ向かう扉が方形のしかも45度の角を与えられたスペースから開けている。これは明らかに通りの概念から始まっている南欧の住居の通路のあり方とは相反する発想法からきている。つまり例えばイスラム建築のように空間の実用的コアとしてのパティォのような発想である。寝室,台所,玄関に囲まれたパティオは夏の居間という役割のほか,通路の役をする。それも細長い通路ではなく,多方向性を持った通路で,そこにはプラサと同一な意味合いがある。またこの手法は空間の利用度をきわめて高いものにできる。これもガウディが常に用いた手段であり,ボデ一ガより建設年代の早いカサ・ビセンスを始めとしてパラウ・グエイ,サンタ・テレサカサ・ミラなど,ほとんどすべての作品にみられる。一方ベレンゲールの1904年のグエイ公園の家にも1909年のオロ通りのアパ一トにもそれは見出せないのである。
二つのセクションそれも異質なものを結ぶ場合,ガウディはダイレクトな連結ではなくクッションをつけた。これがボデーガの礼拝堂の両室,そして2階の両セクションを結ぶ場合にも使われている。ここにもイスラム空間の手法がみられる。構造的にはボデーガはパラボラ・アーチが至るところに使われていて,特に礼拝堂の内部の七つの連続したパラボラ・アーチは先にはグエイ・パヴィリオンの馬小屋,後にはさらに発展した形となってカサ・ミラの最上階のそれへと受け継がれていく。ほぼボデーガと年代を同じくするグエイ館では正面ファサードと中央サロンのキューボラにこのアーチがみられるが,ボデーガでは効果的にも大胆さからみても数段優れている。
そして何よりもガウディならではの構造と空間構成,芸術性,材料の効果的な使い方といったものが,言うならば根源的な,ほとんど有機物的な発生のような出会いから出発したデザインがボデーガ・デ・ガラーフにはある。
またガウディの反シンメトリックなコンボジションがあり,ガウディ特意の煙突があり,宗教的モチーフがある。そして妻の部分に刻まれた“g” は何を意味するのだろうか。
ガラーフ、グエイ、 いやガウディ…。


A+U 1976年3月号より