ガウディ、その周辺

アントニ・ガウディに対する不当な扱いや誤解というものがなくなって久しい。過剰気味なほどの出版物の数々は二百に達しようとしている。ところが,それらがこんどは伝説的な物語を生み出し,われわれを悩ましている。ガウディを孤高の天才として浮び上らせるのは容易かもしれないが,スペイン・カタルーニャの状況の中に,それを正しく位置づけることの必要がそこにはあるのではないだろうか。一つにはガウディの名のもとに消え去ろうとしている建築家とモデルニスモと呼ばれる世紀末の芸術運動を再検討すること,それとカタルーニャの有能な現代芸術家,建築家を検討することからである。ここではガウディの周辺,特に,その弟子といわれていた建築家たちに焦点を合せて,それを試みた。

社会的状況
カタルーニャ文芸復興を意味するラ・レナセンサ(La Renaixença)は文学,造形芸術に多くの影警を与えた。19世紀中葉のバルセロナは繊維産業によって巨大な労働人口を抱え,市の急速な膨張に大規横な都市計画の論争が始まっていた。イルデフォンス・セルダ(Ildefons Cerdà,1816—1876年)による革新的で大胆な都市拡張計画が発表され,実施の連びとなった。政治的には1868年共和制による臨時政府の成立と,カタルーニャの地方分離主義が躍動する。この六年間という短いが重要な意味を持つ共和臨時政府の成立の時期と産反革命からの落し子である労働者階級の成立とが結託して左翼のカタルーニャ主義連盟が成立し,他方右翼では宗教関係者を結集したカタルーニャ地方主義同盟というカタルーニャ主義の浪漫的政治体制が生れる。
建築の分野では,ヨーロッパに蔓延していた折衷主義と呼ばれる時代にあって,このカタルーニャでは,昔日の栄光を中世へ求めることによって,カタルーニャ主義の高揚をみようとしたのだった。力タルーニャのヴィオレ・ル・デュックと呼ばれるエリアス・ロージェント・イ・アマット(Elìes Rogent i Amat, 1821—1897)を中心とする中世主義者,あるいは折衷主義のジョアン・マルトレイ・モンテイス(Joan Martorell i Montells,1833—1906年)といった中心的人物に続いて,1888年のバルセ口ナ万国博覧会を期に世代の移行がみられる。リュイス・ドメネク・イ・モンタネール(Lluís Domenèc i Montaner, 1850〜1923年)をして歴史様式から抜け切った,新しい世代を顧みることにしよう。ルイス・ドメネク・イ・モンタネールは,R.シュムッツラーの言うように不純なアール,ヌーヴォ一の建築家として評される以上に重要な意味を持つ建築家であり,今日ではきわめてヨーロッパ的な理性に基づいた方法によって,後のグロピウスや,デ・シュティールとの関連を指摘されるのが一般的なようである。つまりは彼が構成主義・合理主義,純粋主義の先駆的建築家であったことを意味するのである。
この建築家の博覧会場内でのカフェ=レストランテはこれをよく示している。つまり面の再評価ということである。つまり巨大空間を構成する壁面がここでは平らなのであつて,構造的理不尽をバットレスに求めようというものではなく,純粋な合理性に立って解決しているのである。とはいえこれは例えばマリア・L・ボラスのいうように,その合理的解決をカタルーニャのゴシックに持っているのである。カタルーニャ・ゴシックではバットレスを嫌い,身廊内部にそれを組み込んでしまう。このことによって外壁面を平らにすることが常であつた。ガウディにあってはそのヴォールトの構法とその合理化を言わばカタルーニャ・ロマネスクに根ざしているのが認められるのと同様である。つまり,カタルーニャ・ナショナリズムは,このようにして過去の様式に結びついて,モデルニスモ(Modernisme)と呼ばれるものを生んだのであるが,カタルーニャの伝統工芸であるセラミックや,鉄細工がさらにそれをきらびやかな様式へと進展させていった。独立の気運に満ちた美しき良き時代は,今なお一つのカタルーニャ人の憧れでもある。それではいったいこのモデルニスモとは何であったのかを覗いてみることにしよう。

モデルニスモ
アール・ヌーヴォー,ユーゲント・シュティール,モダーン・スタイル,スティル・リベルティ,セセッションなどと呼ばれた19世紀末の近代芸術運動の波はこのカタルーニャにも押し寄せて,一般的にはモデルニスモと呼ばれ,稀にアルテ・ホベン(Arte Joven)と呼ばれる一つの動きを明確にうかがい知ることができる。
アルテ・ホベンはバリの黒猫をまねて,カサス,ルシニョール,ロメウ,ウトリリョらによって基礎を置かれた"四匹の猫"の刊行する雑誌の名前から由来する。モデルニスモ近代主義の意であり,その起源を1878年のガウディのヴィセンス邸の建設またはモンタネールのモンタネール・イ・シモン出版社(1881〜1886年〉に置き,先に述べたバルセロナ万国博で確固とした位置を築くのである。また産業発展,都市拡張,文芸復興といった世紀末の笑みを堪えるに充分な諸条件を備えていたバルセロナカタルーニャにおいて,華やかなる開花をみた。
家具デザイナー,ガスパー・オマール(Gaspar Homar,1870〜1953年〉のように著名なデザイナーとして,ヨーロッパでもその名を知られていたものもあるが,カタルーニャというヨーロッパの片田舎で展開されたこの運動の評価は異常に低いものである。グラフィックやボスター・デザィンを手がけていたアレクサンドレ・デ・ビケール(Alexandre de Piquer,1856〜1920年)、演劇関係のボスターと初職デザイナー、アドリア・グラウ(Adria Grau, 1872〜1944年)は、未だ不当な扱いを受けているといえるだろう。鉛筆の画家ラモン・カサス(Ramon Cases, 1866〜1932年)は忘れがたい人であり,彫刻家ジョセップ・リモナ(Josep Llimona, 1864〜1934年),エウセビ,アルノウ(Eusebi Arnou, 1864〜1933年),ミケル・カサス(Miquel Casas, 1866〜1932年),そしてサンティアゴ,ルシニョール(Santiago Rusiñol, 1861〜1930年)はモデルニスモの最も典型的人物で,バルセロナ近郊のシッチェスのモデルニスモ祭の創始者,そして彼自身のコレクションである鉄細工の収集品を中心としたカウ・フェラウ美術館の設立者であり,画家,彫刻家,劇作家,それにバリにあったグレコの絵の発見者でもあった。

とはいえモデルニスモを最も特色づけるのは建築においてであろう。バルセロナ市の格子状に組まれた新市街区を形成している様式は,とりもなおさずモデルニスモである。そしてドメネク・イ・モンタネールをその中心的人物として取り上げても間違いはないだろう。モンタネールは孤高の建築家でも貧しい建築職人でもなかった。1873年マドリッド建築専門学校を卒業,1875年にはバルセロナ建築学校で地形学,鉱山学の教授となり,そして数々の教育システムの改革や再編成に努力し,1877年には「材料の知識」「建築のための物的自然科学」といった新構造学を開設し,同時に初期の最も重要な作品であるモンタネール・イ・シモン出版社を建設した。鉄,ガラスといった新しい建築材料を自らの論理の中に展開し,新しい空間探索を試みたのである。そして先に述べたカフェ=レストランテを万国博のために建て,48の大小パビリオンからなる都市計画的作品サン・バウ病院(1902〜1912年),そしてカタルーニャ音楽堂(1905〜1908年)において頂点に達する。ボラスの言うように,豊かな装飾のもとで力強い抒情により,厳しい建築概念と真の天才の革命的なビジョンを隠してしまう。そういったことから,彼に続く世代というものは,その作品の中に装飾以外の何物も認めようとはしなかったのである。一方政治的には彼はカタルーニャ主義(Lliga de Cataluny)党の総裁(1887年),カタルーニャ主義同盟議長(1982年),ジョクス・フロラルス(Jocs Florals)の会長(1895年),下院議員(1901年),その再選(1903年),あるいはバルセロナ建築学校長,バルセロナ学術協会長など,精力的で幅広い活動をしていた。それをヒッチコックのように,その時期の建築のうち最も金のかかったものの一つであり,線の太く,荒削りな金ばかりかけた,およそガウディに具わっていた鋭いところとか,誠実さとはうらはらな建物であったと評するおのはあまりに危険である。

ジョセップ・プーチ・イ・力ダファルク(Josep Puig I Cadafalch, 1867〜1956年) はモンタネールと並ぶ中心的存在の一人であったろう。"四匹の猫"に集る若きピカソやノネイ,アルベニ,グラナードスといった血気に逸る若い芸術家たちのたまりであつたカサ・マルティ(Casa Martí, 1896年)の設計を手がけたのもプーチである。彼はバルセロナ大学で物理数学を学び,また同建築学校で建築を学んだ。カサ・バトリョの隣にあるカサ・アマトリェ(Casa Amatller, 1900年)は,そのモザイクの使用にガウディを先行するものがあって注目に値する。その代表作のカカ・デ・レス・プンチェス(Les Puxes, 1905年)にしてもその新古典主義と言えなくはないコンポジションとディテールに,ネオ・ゴシック主義者と呼ばれることもあるが,そのフロー ラルなそして多彩色なイメージは世紀末のものであろう。彼の多くの研究の中にはロマネスク美術建築に関するものがあり,1930年のパリ大学芸術学部設立に際し,ロマネスク建築についての招待講演をしている。
正確にはモデルニスモと呼べないかもしれないが,ラファエル・マソ・イ・バレンティ(Rafael Masó i Valentí, 1881〜1935年)はバルセロナの隣県ジロ−ナでその巧みな文筆力と雄弁をもって芸術運動を展開していた。彼は建築家であり,詩人であった。新聞社の編集長,そして画家でもある父を持った彼を,その作品の詩的な造形と色彩とに伺い知ることができる。彼の情熱は地方文化芸術運動にと向けられ,その職業建築家としての出発と同時に多くの有能なる協同者を集め彼のプロジュクト遂行の準備をしたという。そして彼の芸術と文化の運動は1913年に「アテナ協会」設立によって開花した。多彩な内容と特質的な活動が常に短命であるように,この運動も5年間でその幕を閉じてしまった。にもかかわらず,彼自身はそれを母胎に芸術学校開設を市当局に訴え,市議会に特別委員会を置かせたが,最後の最後その指導原理で市当局と対立し,離散してしまった。カタルーニャナショナリストとして投獄の憂目にあい,市会議員のイスまで失ったこともあり,サガ口 (S’Agaró, ジローナ近郊)の都市計画の着手,回教浴場の修復など精力的な活動家であった。彼の建築は,モデルニスモに続く ノウセンティスモ(Nousentisme, 1900年主義の意)の過渡的なものとして今日評されている。
ドメネク・イ・モンタネール,プーチ・イ・カダファルク,ラファエル・マソ・イ・バレンティの三人でモデルニスモを語ることはできない。例えばリュイス・ムンクニイ(Lluís Muncunill, 1868—1931)のような表面的な平面性と装飾性を特色とする建築家,サルバド・バレリ・ププルイ(Salvado Valerí Pupurull, 1873〜1954年),エドゥアルド・マリア・バルセルス(Eduardo María Barcells, 1877〜1965年),ジョアン・アミゴ・イ・ガリーガ(Joan Amigó i Garriga, 1875 1958),ジョセップ・ドメネック・イ・エスタパ(Josep Domènech i Estapá, 1858〜1917年),エンリック・サグニエ・イ・ビラベッキア(Enric Sangnier i Villavechia,1
858〜1931年),ジョアン・ルビオ・イ・ベジュベール(Joan Rubió i Bellever,1870〜1952年),マヌエル・ジョアキン・ラスパル・イ・マヨール(Manuel Joaquim Raspall i Mayor, 1877〜1937年)あるいはベレンゲールやジュジョールといった建築家がいる。

ベレンゲール
フランセスフ・ベレンゲールは(Francesc Berenguer, 1866〜1914年)は3人兄弟の末つ子としてガウディとは同郷の小商業都市レウスに生れた。彼の父はその土地の教師で,ガウディの恩師の一人でもある。ベレンゲールが15歳になると家族はバルセロナへと出た。その1881年に彼はパルセロナ公立美術学校に入り,1886年まで籍を置いている。この間建築専門学校にも学んだが,21歳のときアデリナ・ベルヴェーとの結婚で学校を去った。と同時にガウディとの協同が中退の原因の一つでもあつた。
ガウディの忠実な弟子たちの中で最も才能豊かであつたのは、べレンゲ一ルであつた。彼の死んだ時ガウディは「私は片腕になってしまった」と,その死を惜しんでいる。ベレンゲ一ルのガウディとの仕事の中で大きな役割だったのは,複雑で入り組んだ,時には途方もなく支離滅裂であったガウディの思考を,具現化して職人たちにその指導をすることであった。彼はときに「彼はもつと単純にする時間がなかったのだ」と言い,ガウディの感性や建築的思考を未不純なものとした。ガウディの「独創とは源にかえることである」を再び創造活動へと還元させたのはべレンゲールであったのかもしれない。
複雑で抽象的なアイディ了を,単純化した具体的な手段へと持っていくというガウディとの協同の中に創造活動を進めていたにもかかわらず,彼自身の作品には明らかにガウディとは違った性格がある。一つには円筒形,立方体,角柱といったさまざまな幾何学形を利用した,立方三次元形にあり,そしてアール-ヌーヴォーの主要な装飾上のエレメントとてしばしば使われた,多彩色モザイク,石膏天井,搔き画などの豊富な使用を特徴としている。
彼の装飾的様式を建築家ジュアン・デ・アメスティは次のように述べている。「彼の創造において最も特質的なものはその装飾であり,オーナメントのディテールがさらに特質的である。モールディングはガウディのように辛辣なものではなく,多くの場合に鋭い角は避けられ,丸みをつけられている。その繊細なオーナメントによる調和によって,非常に柔らかで影が曖昧なものになる」。
これらの特質はジュジョ一ルの中にも共通するところであるが,立方三次元形はサグラダ・ファミリア教会の彼の協同に最も発揮されたものであった。ガウディ自身は確かにこの立方体を使つてはいない。1928年から翌年にかけてのバルセロナ芸術批判においてフェリックス・エリアス(Felíx Elíes)はベレンゲールを擁護した。例えばサグラダ・ファミリア教会,御誕生の門の内陣側のデザィンはベレンゲールの手になるものだというのが,それである。彼の作品中最も注目すべきものは,ガラ一フ、バルセロナ近郊)のボデーガ・デ・グエル(Bodega de Güell)
であるだろう。壁と屋根とが一体となって,純枠な放物線によるオリジナルなヴォールトを生み出している。内部は三層に分断され,石積にもかかわらず非常に軽快で,美しい門扉は鉄細工にいかに精通していたかを明らかにする。海に面した静かな村ガラーフの風景にこの小建築は見事に組み込まれている。

ベレンゲールの主な作品
1888—1890? ボデーガ・デ・グエル,ガラ一フ
1893 リベルタッド広場,パルセ口ナ
1900 グラシァの家,サン・ホアン教会の家
1900 グエル伯爵のエル・ポアルの家
1904 グエル公園の家
1905 マヨール・デ・グラシァ街の家,バルセロナ
? グラシア市市庁舎ファサード
1906 マテウ家の狩獬小屋と門,リナーレス・デル・バジェス(崩壊)
1906 別荘ペイハの玄関
? マョ一ル・デ・グラシア通り15,50, 61,196, 237番地の家
? トーレ・ベレンゲ一ル,バルセロナ
1908 ルビオの家
1909 サン・ホアン教会の修復,グラシア
1909 エルス・オスタレツの礼拝堂
1909 オロ通り44番地の家,バルセロナ
1909 セント口・モラル,グラシア
? トリホス通り14番地の家,パルセロナ
1910—1914 サン・ホセの御堂,パルセロナ
1914 コロニア・グエル(サンタ・コロマ・デ・セルヴェジョ)技師の家,協同組合の建物
グエル家別荘の装飾

建築学校を中退したべレンゲ一ルはこれらの作品の中でも彼自身の名前を使うことはできなかった。中退するとアウグスト・フォント(August Font)のもとに働き,その後1892年グラシア市の建築課に働くためにフォントを離れ,その市の建築家ミケル・パスクアル(Miquel Pascual)にその名義を借りるという次第であり,彼が逮築家の称号を得たのはその死の一年後追悼の授与であった。
ガウディとのその協同で記録されているものは,パラウ・グエル(1885〜89年)の正面のデザインで,彼はそれを25回書き直したといわれている。そしてべドラルべスのグエル別邸(1887年),ベレスグァルド邸 (1900〜1902年),コロニア・グエル地下聖堂(1898〜1914年),サグラダ・ファミリア教会付徐s学校(1909年),そしてサグラダ・ファミリア教会である。彼は二つの顔を持っていた。つまり午前中はパスカルと働き,午後をガウディとの共同,特に聖家族教会に費やしたのだ。
彼の死までの25年間,それは間断なく統けられたのだった。注意深くガウディの年譜を繰ってみると,1914年の波の死後ガウディは何ら重要な作品を創っていない。

ジュジヨール
ベレンゲールより13ほど若く,その師ガウディより27歳若いホセ・マリア・ジュジョール・イ・ギルべルト(Josep Maria Jujol Gilbert, 1879〜1949年)はバルセロナの隣県タラゴナに生れた。タラゴナの美しい自然を愛し,イマジネーションと色彩による異常なセンセ一ショナルな才能を持っていたガウディの協同者の一人であった。ジュジョ一ルもペレンゲ一ルと同じように教職に就く父を持ち,幼い頃からの厳格な教育をうけ,バルセロナ建築学校ではガウディとは違って優等生であった。
1906年建築学校を卒業して建築家の称号を得た彼は,ガウディがちょうどカサ・バトリョの改築とカサ・ミラの建設を進めている時,助手代理としてバルセロナ建築学校に職を得,しばらくして正式な教授として迎えられた。と同時に工科大学の教授でもあったジュジョールは,装飾と色彩に関する有能な教師であったという。建築的エレメン卜の模写の指導という従来から行われていた教育法ではなく,あくまで創造性を育成することにその教育の方針を置いていた。当時根強く支配的なカタルーニャ文芸復興と結託していたネオ・ゴシック様式の崇高かつ荷重でもあった伝統を打ち砕き,ガウディ様式を打ちたてた一人であった。
ジュジョ ールの直接の生徒でもあった、後のガウディの弟子ラフォルスはその追憶の記の中でこう述べている。「彼の生存中われわれの間で評価できなかった彼の芸術性に対する正当性を心から望んでいる。彼の目立たない性格,彼の時に呆然とさせる誠実さ,それらは彼の名声の獲得を阻むものであった」彼はその師と同じように物質的な貧困というものと戦っていた。小さなアバ一卜に住み,仕事場に居を構えるといったいわば中世的な方法によって作業と思考を展開していった。
こういったことからしばしばその生活方法と創造活動の方法をガウディのそれと重ねられる。ガウディは終生結婚をしなかったが,彼もガウディの死の翌年48歳まで独身を通した。ガウディはその劇的な死をひきあいに出されるが,彼の死もそれに等しい。スペイン戦争の長い暗黒の時期に健康を害し,苦痛に耐えたが,慢性的な持病を持つようになり,1949年の5月1日朝,突然その苦痛から開放されたジュジョールは,長く行くことのできなかったミサに参列する喜びを得たのも束の間,その曰の午後世を去った。「私の身体が弱くなるにつれ,私の精神はより自由に,より素晴しくなるのを感じる」 (ガウディ)
建築学校を終え教職に就くと同時に,彼はアントニ・マリア・ガリサ(Antoni María Gallisà, 1861〜1903年),あるいはジョセップ・フォント・イ・グマ(Josep Font i Guma, 1859〜1922年),そしてガウディのもとに働くが,それはしばしば協同者以上の才を見せてくれる。例えばガリサのオルフェオ,カタラは明らかにジュジョールのものであるし,グマのバルセロナ学術協会はグマ自身のものとは明らかに異質なものである。ガウディとの協同においては,グエル公園カサ・ミラカサ・バトリョ,そしてマジョルカ島パルマ大聖堂の修復と働いたことが記録されている。彼自身の作品では次のようなものがある。

1911 マニヤックの店(現存しない),バルセロナ
1914—1930 カサ・ネグレ,サン・ジョアン・デスピ
? カルマリン、カルメリータス教会内,タラゴナ
1914 トーレ・デルス・オウス, サン・ジョアン・デスピ
1916 サンサルバドール・イ・ケラルトの家,バルセロナ
1918—1923 ビスタベージャの教会,タラゴナ
1922? ディアゴナル332番地の家,バルセロナ
1927 モントセラの礼拝堂(未完)
1929 スペイン広場の噴水,バルセロナ
1932 自邸,サン・ジョアン・デスピ
1939—1949 ベンドレイの教区教会の祭埴,バルセロナ
1943 サン・ホワン・デスピ教会の礼拝堂

ジュジョールの作品の中にはガウディの構造的大胆さや,その発想の原点を見出すのは難しい。しかし1907年から1914年というガウディとの協同の時期の後建てられた「トーレ・デルス・オウス」または「トーレ・デ・ラ・クレウ」と呼ばれる郊外住宅は,三つのシリンダーから形成され,パラボリック・アーチの入口,長円形の丸屋根の原理といった手法を使っている。これは確かにガウディなのである。彼は建築家である前に偉大なる装飾家として記憶されるべきだろう。ミロを驚かせ多大な影響を与えたといわれる,グエル公園の集会場広場のベンチ,カサ・バトリョファサードを飾ったセラミックの輝きは,彼なくしてはないものだ。
ジョアン・ルビオ・イ・ベルベルJoan Rubió i Bellver (1870〜1952年)もレウスに生を受け,サグラダ・ファミリ教会の仕事を共にしていた一人であって,ガウディの有名な垂直曲線による構造実験を担当していたのは彼であり,マジョルカ島パルマ大聖堂修復にもスグラーニェスと共に協同している。ルビオは強い個性を持った建築家であったことはFrare Blanc邸(白い修道士邸)に明白である。そのレンガ積の巧みな手法,特に最上階のガレリ一のカタルーニャ・ゴシックの再現は見事という他はない。彼のカサ・アレマニ, カサ・ゴルフェリチェスあるいはカサ・ボマルにカサ・ミラの三次元平面の影響をうかがわせる。またガウディとのレンガ積との体験とドメネク構成主義の間に位置する建築家とも言われる。
ドメネク・スグラーニェス(Domènec Sugrañes i Gras,1873〜1935年)も非常に早い時期からのガウディの協力者であって,1900年と1902年の間のベジェスグアルドの門の鉄細工および塀を手がけ,またサグラダ・ファミリア教会の師の死後キンタナ(Francesc de Paula Quintana i Vidal、1892〜1962年)と共に建設を铳行した一人であった。
ほかにコロニア・グエイとカサ・ミラに協同したジョセップ・カナレタ(Josep Canaleta, 1875〜1950年),あるいはガウディの友人でもあったブエナベントゥーラ・コニル(Buenaventura Cunill)は論理派の美学者である。そして現在聖家族教会の建設を続行しているボネット・ガリ(Bonet Gali) ,そしてプーチ・ボアダ(Puig i Boada)といった建築家が,御光栄の門の建設を急いでいる。


よく言われるが,現代のカタルーニャのあるいはスペインの建築家・芸術家が今もガウディを食っているという。確かに「白い塔」のサェンス・デ・オイサや「ニカラグア通99番地の家」のボフィール,「カタルーニャ銀行」のファルガス+トウスといい,画家タピストリー職人のグラウ・ガリーガ、また彫刻家スビラックスの中にガウディを見出すのは容易であろう。しかし逆にアルハンブラ宫,コルドパのメスキ—タ,プラテレスコ,チユリゲレスコ,エレラ様式といったものを生み出したスペインの,その氷山の一角としてガウディをとらえるならば,彼らはその伝統を継承しているにすぎない。しかし何という新鮮な感覚的な伝統だろう。

A+U 1974年5月号