ガウディとガウディたち Vol.2

ガウディたちのモデルニスモ
ガウディをバルセロナの街に訪れた人々は、一様に日本の本棚から見る一種異様な、いわゆるガウディ様の特異性や突飛性とは違った印象をバルセロナの街で受けたことだろう。このバルセロナの街でガウディは必ずしも孤高の建築家ではないからである。

ガウディの作品の多くあるバルセロナの新市街、いわゆる「エイシャンプレ」地区(Eixample、彼と同時代の有名無名な建築家の手になるファンタスティックな建築で.満たされているため、ガウディがこのガウディたちに取り囲まれてしまっていて、日本から期待していた街頭に際立つ特異性や突飛性といったものが逆にガウディたちのアナーキーな建築術に押しやられてしまい、ガウディが特異なものでも、むろん突飛なものでもなく、至極当然で果ては古典的で慎ましやかにさえ見えてしまう。
エイシャンプレを埋めたここでいうガウディたちは、今日モデルニスモ(Modermisme)と呼ばれる時期の建築である。当時のカタルーニャのある社会状況と文化意識、経済構造によって織り上げられ、これを背景としてエイシャンプレという新都市形成の場を借りてモデルニスモ建築は生まれている。

しかもまさしく様式と呼ばれるにふさわしい一時の流行スタイル以上の展開と足跡とをバルセロナの新しい市景に焼き付け、カタルーニャの端々まで浸透させている。

カタルーニャ蒸気機関が導入されたのは1836年のことである。スペイン初の鉄道がバルセロナとその衛星工業都市マタロとの間に開通したのが1848年のことである。カタルーニャモダニズムと経済的主導権はこれで首都マドリッドを大きく引き離した。すでにカタルーニャでは産業革命の怒濤が押し寄せてきていたのだ。
当然のこと、これによって社会状況は著しい変化が迫られる。労働力を売る労働者階級の成立と、短期間に富の蓄積を成し新しい主導権を握るようになったブルジョワの誕生からくる社会構成の変化、他地方から流れ込む労働者の急増から引き起こされる物的都巿構成の無理な変動、これらにともなう新しい社会的な要求といつた世紀末特有の状況は、他のヨーロッパの近代工業都市にも一様に見られる現象と関連しているのはいうまでもない。
ただ、カタルーニャの場合、半島の他地方から分離独立しょうという根強いカタルーニャ民族意識の高揚、また都巿計画上の重大な転換期にさしかかったという二つの点で他のヨーロッパの諸都市の世紀末の状況とはいささか違っていたのである。しいて言えば、ヒッチコックが述べるような、スコットランドとの共通点が浮かび上がってくるかもしれないが、それもやはりカタルーニャと同様辺境の地であるのだ。
カタルーニャ、マルコ・イスパニコとしてフランク王国後ろ楯に、また半島侵入の回教徒たちの前線地帯として803年、ビレネーの両側に跨った独立国として成立している。またスペイン初の海事法を1283年に編纂し、自治政府ゲネラリタートを恒久的議会機関として早くも1461年生み出している半島での最も古い国で、住民は金髪に碧眼、実直で勤勉として知られ、カタルーニャ語を日常語として交わしているのだ。
産業革命後のゴールド・ラッシュ(1878〜82年)は、中央マドリッドから圧迫され続けてきたこのカタルーニャ分離主義を再燃するに充分な経済的発言力をもたらした。それに平行した政治的勝利は、この史的願望の独立意識をリアリティーのあるものへと確実に一歩近づけていった。
こういった状況が、ヨーロッパの頹廃的な厶ードとは明らかに一線を画した性格の容貌をバルセロナの世紀末芸術に投影したのは至極当然な成り行きであろう。
国内でいうならば、中央政府マトドリッド=カスティージャが対北米戦争に破れ、帝国最後の植民地を失い「98年代の世代」を悲観的に生み出したのに対し、経済的な繁栄に裏づけられ、文化的な民族意識の再興に目が向けられたカタルーニャでは、このモデルニスモという文化運動を楽観的に生み出すことになったのである。

中部建築ジャーナル1986年11月号より