ガウディとガウディたち Vol. 3

工業都市化へのバルセロナ
モデルニスモバルセロナを語るにはどうしてもこれより150年は溯らなければならない。
1705年から14年まで、カタルーニャは王位継承戦争に巻き込まれて、その継承者フェリペ5世に対し叛乱起こしたのだが、フランスと一つ台併軍によるバルセロナ包囲でこれが鎮圧されてしまう。(桨5 :)政府は市に対して制裁を加えるためと、再度の軍事蜂起とを防ぐために市の東端に8000人収容の要塞建設を強要する。これ以降、バルセロナの市街図にはシウダデーリャ(Ciutadella)の名が書き込まれるのであつた。シウタデーリャの建設には1262軒の家屋と48の街路が何の陪憤もなく強制撤去され、勅命の出た同年の1715年から17年、18年と草々撤去忭業はすすめられていった。カタルーニャ人にとっては屈辱的なできごとであつたのはいうまでもない。それと同時に市は5分の1の居住区をも失っている。

早くも1718年に完成されるこのシウタデーリャの要塞は、フランスのヴォ一バンが前世紀にプランを開発し、全ョ一ロツバに普及させた星型ブランで、歴史的には典型的なバロック型都市計画である。この計画者フェルブーンはフェリッペ5世に召喚されたフランドル出身の軍事技術者で、1709年マドリッドへ着以降王室づきの技術長官に任命され、このシウタデーリャ完成後にはバルセロナ総督に命ぜられてそこで生涯を終えている。

フェルブーンは14年のバルセロ ナ包囲戦に直接参加したことから、この東端が市の弱点であることを誰よりもよく知っていた。当時の市は西方の高台モンジュイック丘に要塞をかまえ、海側も山側もぐるりと市壁に囲まれ、塁壁内には2000におよぶ畑を抱え込み、家屋もせいぜい二層どまり、当時のバルセロナの人ロは35000から40000と推定されるから、人ロ密5は134人/haと、いわば田園都市の風情を塁壁にもいくらかはとどめていた。

ところが、その世紀の終わり頃にはその3倍に近い13万人が市壁内にひしめき合い、なおかつ市域はそのままになっていた。畑は市壁の外周に追い出され、パティオには出窓が突き出され、家々の階数は継ぎ足され、この急速な人ロ急増は取り繕われたのだった。

1772年の統制を見てみると3層家屋は全体の16.6%、 4層が63,3%、5層が10%で、6層が5%だったのに対し、そのわずか20年後には5層家屋が34,7%、6層家屋が37.%となり、20年前少数派であった5層以上の家屋が一挙に72,2%を占める主流派となってしまうという急激な変貌ぶりを見せいている。この間、都市計画上の改善処置が皆無とあっては、都市の零落ぶりは避けがたい。しかも建築面積の増加からくる都市環境の零落だけではなく、使用建築材料の低質化もこれにともなって起きていた。

増築部分のほとんどは、既存部の石造に対して低廉で軽量であるレンガが使われた。しかも、1768年のレンガ職組合は市に対して、「重い、しかも大ぶりのレンガ製造を強要されているが、購入者側や左官たちは軽い小さなレンガしか使いたがらない」といって陳情しているように、明らかに建材の低質化が認められる。

中部建築ジャーナル1986年11月号より