創造はオリジンに戻ることだ

完成した身廊 祭壇を望む

二〇一一年に屋根がかかった身廊部分、あるいはそれ以前に着工し、すでにほとんど完成している御光栄の門はガウディが死んでからその弟子たち、あるいはその孫弟子たちによって建設されている。
ガウディはまさしく創造の人であった。サグラダ・ファミリア教会の建設続行反対というのはこの辺りから起こっている。弟子、孫弟子たちは考古学的な作業をしているに過ぎないというのだ。つまり、ある時期にガウディが考えていたデザインをそのまま形にしようとしているのだ。
ガウディ自らが残した言葉の中には『創造はオリジンに戻ることだ』というのがある。これは色々な意味を含んでいようし、色々な解釈も可能だ。しかし、何はともあれ、ガウディはこれまで見てきたようにクリエーターとしては常に枠を外す、しかも自分の枠を外すことを実行してきた人であるのは間違いがない。 これに対して現在の建設続行者たちは大きな間違いを起こしている。
世間はブランド、ブランドで沸いているにもかかわらず、実はブランドというのは自らの表層を作り上げて、その中でのみ創造活動しなくてはいけないという大きなトリックを秘めている。 ろくに大型の実作も無いゲーリービルバオグッゲンハイム美術館を実現させ、これが受けに受けた時点で、ゲーリーは墓穴を掘ったことになる。 つまり、チタン・パネル張りで、とても建築的な発想からとはほど遠い、中に入ることのできる彫刻をクライアントたちは要求し、ゲーリーがいかに説得しようが、ビルバオでの成功以来、グッゲンハイム美術館のデザイン以外のものを誰も要求しなくなってしまったからだ。 これはゲーリーだけにもたらされた不幸ではない。 グッゲンハイム財団ですらこうなれば、新しい美術館を建設しようという時ゲーリーに設計依頼するしかなくなってしまった。 ブランドを生み出すということは往々にしてこういう危険性を持っている。
ガウディはサグラダ・ファミリア教会の御誕生の門で見てきたように、常に新しいものを求めてきた。 白紙からデザインをしてきた。 個性を作り出し、この個性が形骸化されていくような設計のポリシーを持たなかったのだ。
『創造とはオリジンに戻ることだ』とは、クリエーターとしてはまさに倫理にかなっている。