第二章

ガウディへの評価

ル・コルビュジェとガウディ
ル・コルビュジェは一九二八年春、マドリッドでのレクチャーを終えてから思いがけなく後に弟子となるセルトから誘われてバルセロナへと旅をしている。 この時、コルブが生涯綴り続けたという旅のノートの中にいくつかのスケッチを描き、また『カウディは十九世紀の建築家、仕事の人、意思の建築家、鉄と煉瓦の建築家である』というメモを書き残している。 そしてこのメモは一九五七年十月三十日、一冊の本の序文というかたちで出版されている。 この本というのは無名時代のピカソなどのパトロンとなったバルセロナの一介の帽子屋、ジョアン・プラッッが編纂し、数多くのアーティスト、とくにミロと交友のあったボヘミアジョアキン・ゴミスの写真集Fotoscopの第一巻であった。
それには『十九世紀と“石鹸の家”との対極か。 私にとってこの問題はあり得なかったのだが・・・。 バルセロナで見たガウディは一人の人間の魂、信仰心、石工が一生かかって築き上げた非凡な技術的キャパシティーを見せてくれ、真に熟考された線を目の前で石に刻ませることができる人間が作らせた作品群であった。 ガウディは十九世紀の“建設者”であり、職人であり、石、鉄あるいはレンガの構築者であった』 とある。
まさしく、一九二八年前後のコルブはアジテーターとしての名声は高かったものの、作家としては石鹸の箱の幾分大きなスケールのものを作り始めた時期であり、前年の国際連盟本部コンペのゴタゴタで名を馳せていた頃だ。 一方、メモが印刷された五十七年のコルブといえばマルセイユのユニテを完成させたものの、今だこの立体都市の反対運動に悩まされる日々を送っていた時であった。そして、実は彼のこの文意とは裏腹に、パルテノン寺院とシトロエンを並置させたコルブがあのロンシャンの礼拝堂を奉納したばかりの時であった。