フェルブーンのシウタデーリャ

フェルブーンは十四年のバルセロナ包囲戦に直接参加したことから、この東端が市の弱点であることを誰よりもよく知っていた。 当時の市は西方の高台モンジュイック丘に要塞(現在軍事博物館として保存されている)をかまえ、海側もぐるりと市壁に囲まれ、累壁内には二千におよぶ畑を抱え込み、家屋もせいぜい二層どまり、当時のバルセロナの人口は三万五千から四万と推定されるから人口密度は百三十四人/ha と、いわば田園都市の風情を塁壁内にもいくらかはとどめていたことだろう。
ところが、その世紀の終わり頃にはその三倍に近い十三万人が市壁内にひしめき合い、なおかつ市域はそのままになっていた。 畑は市壁の外周に追い出され、バティオには出窓が突き出され、家々の階段は上部に継ぎ足され、この人口急増は取り繕われたのだった。
一七七二年の統制を見てみると三層家屋は全体の一六.六%、四層が六十三.三%、五層が十%、六層が五%だったのに対し、そのわずか二十年後には五層家屋が三十四.七%、六層家屋が三十七.六%となり、二十年前少数派であった五層以上の家屋が一挙に七十二.二%を占める主流派となってしまうという急激な変貌ぶりを見せいている。


Salvador Tarragó i Cid, 「Barrcelona Según Catastro de 1717-1719年」, Cuaderno de Arquitectura y Urbanismo, Barcelona, No. 80, P.20

Andre Barey, 「Barcelona; De la ciutat pre-industrial al fenómeno modernista」, Col-legi Oficial d'Arquitectes de Catalunya, Barcelona, 1980年, P.9.