中世型都市バルセロナの終末

ところで、シウタデーリャはついに要塞としては機能するにいたらず、牢艦として使われたにすぎないのだが、その政治色の濃い存在は市民から嫌悪され続け、一八四一年には軍団指令官の不在をよいことに、市がこの要塞の取り壊しを始めたというエピソードさえもある。
一八四六年に入ってやっとのこと、市壁内に押し込められ、蒸気機関が導入されて、充分な労働力さえ備えたというのに工場増築さえままたらないバルセロナ市に、拡張計画案エイシャンプレの構想が具体化する。 鉄道がすでに開通しようという工業時代で、甲冑を身につけた中世都市像から市が抜け出そうする最初の試みがこれである。
このきっかけをつくったのは、実は隣接のグラシア市がバルセロナ市と合併を求めたことからで、これには市の山の手側をスプロールさせなければグラシア市と結べないから、合併するにはそれが必要であったから。
ただ、この計画案の立案特別委員会は中央政府の指示下、軍事技術官を主体として編成されていた「バルセロナの地勢調査、および拡張の委員会」と呼ばれる団体であったから、あくまで軍事的行為と見られていたのだ。
この委員会は市壁外周の地形測量図の作成後、一八四八年の八月に計画案をひとつ提出している。 これは遅れて五十四年市側も、より広範な地形図製作に乗り出し、本格的な拡張計画への実現に近づこうとしている。 そして、この年勅命によって「陸部分にあって、要塞域を構成するバルセロナの外壁は取り壊されるべく……。」という中央政府の軍事的な発想の変転に、市からの度重なる陳情をしりぞける理由がすでになくなってしまい、ついに市壁の撤去が認めされた。 折しも同年、市壁に囲まれた過密都市バルセロナコレラ再襲を受け、六四二九万人の死老を出している。
拡張計画はこうして産業資本家側からの経済的発展促進、市民側からの環境衛生改善という目的の一致をみて、ついに実現の一歩を踏み出すにいたったのだった。


もっともこれ以前に市の山の手側、現在のロンダ・デ・ウニベルシダードとウルキナオナ広場とを結ぶ、市壁が三角形に入りくんだ部分を直線に広げようという計画案があり、1844年に中央政府から認可されるまでにいたっているのだが、市壁の新たな建設が見込まれている。また、拡張地の所有権悶題で実現されなかった。

現在のパセオ・デ・ダラシア(ダラシアの散歩道の意)は、いってみればこの発端と同意で、グラン・デ・グラシアのメインストリートヘと通じる大道というわけである。

行政上からは公共事業への介入が軍部から民間の勧業省(現在は公共事業者)の手に移り、この時点で軍事技術者が廃止となり、シヴィル・ニンジニアが誕生する。