セルダの理想論

いわゆるカルリスタ戦争の時代で家族からの送金が不可能なことから、マドリッドの学生時代はどん底生活を送ったこともある。 リベラルな家風に育ったせいもあろうが、この学生生活が後年「バルセロナの労働者階級の統計論一八五六年」を刊行させ、急進的な政治活動、果ては急進的な都市計画案を作らせるにいたったのであろう。
しかも、後年二人の兄を失くしてしまうセルダは、セルダ家の家督相続人となるのだが、彼はその莫大な遺産のすべてを夢の理想都市に注ぎ込んでしまった。 挙句の果てに晩年には娘の稼ぎを頼りに細々とした生活を送るほどに経済的に困窮してしまうのであった。
一八五五年、プロリタリアート委員会の派遣代表を伴い、マドリッドカタルーニャの労働状況を報告に行っているが、このあとセルダは「労働者階級の代表たちは、いく人かの大臣との政治談義を終えて、どうしても拒否できないデータをもって実証するしか手がないことを知り、緊急にこれをやる必要を感じたことに違いない。……私の都市上の統計での試みは、同時に労働者階級に多大に奉仕するものなので……、私は彼らの物的生活のあらゆる種類のデータと情報の採集者、編纂者となることを名乗り出た。」 と語っている。
これが翌年刊行された「バルセロナの労働者階級の統計論一八五六年」である。 セルダが一方で社会学者といわれる所以はこういう業績からなのだ。 ロバート・オウエンの空想的社会論ともここで大きく差をあけているのだ。


セルダについては拙稿「セルダのバルセロナ計画」a+u, 1975年2月号、PP 18〜19及び「バルセロナの知られざる都市計画家、イルデフォンソ・セルダ」a+u, 1976年11月号,PP.19〜26

Arturo Soria y Puig上掲論文。 P.10