マヌエル・マルティン・ロドリーゲス

Manuel Martín Rodríguez
生:1751年 没:1823年
スペインの建。
ロドリーゴ・ベントゥーラ*の甥であり、弟子。ロドリーゴの死後はサン・フェルナンド王立アカデミーの責任者、マドリッドの建築家長として後を受け継ぐ。一説にはロドリーゴの実子であると言われる。サン・フェルナンド王立アカデミーで学んだ後、ローマに遊学、1781年にマドリッドの工事長に空席が出来ると願書を出すが選ばれず、マテオ・ギィル(Mateo Guill)に決まる。それ以降ロドリーゴの加護の下、ロドリーゴの設計したもの全ての作品の現場監理をした。その没後には再度市の工事長へ推挙されるように運動するが、ギィルが先任者としているのでかなわず、ちょうどこの時期にカルロス3世が王室建築家を選定していたので、これに応募したが、ギィル始め、フアン・デ・ビジャヌエバ*も名を連ねていたためビジャヌエバに決定される。サン・フェルナンドでは徐々に責任のある地位に推挙され、市井建築家として活躍した。
ウエルタ候の居館(conde de Huerta, calle Fuencarral), マタジャーナ候居館(marqués de Matallana, 現在のロマンチック博物館Museo Romántico), 現存しないがサンタ・クルス・デル・ビソの居館(marqués de Santa Cruz del Viso, calle de Guillermo Rolland) などがある。