アンドレウ・クラロス・イ・ドメネク

Andreu Clarós i Domènech
耳鼻科医者。

ガウディ研究家のジョセップ・マリア・タッラゴナが2011年2月2日にガウディと面識のある数少ない人物の一人として、アンドレウ・クラロス・イ・ドメネクにインタビューしている。当時クラロスは92歳であった。
クラロスの家はカタルーニャ出身であるが事業はパナマラム酒を製造していた。クラロスも5歳まではパナマで過ごしていたが、第1次世界大戦にスペインにに戻り、サリアにあるエスコラピオス派の経営する寄宿制の学校に9歳で入学(1925年)。この学校の面会日は日曜だったが、面会のあった後はレクチャーが準備されていた。1926年度のこの定例の日曜日のレクチャーにガウディが現れ、サグラダ・ファミリアの話をしたのだった。
タラゴナの書き取ったクラロスの記憶ではガウディ、見栄えしない服装であったが、ホームレスという事ではなかった。清潔にはしていたがシンプルな服を着ていて、髪の毛はふさふさだった。アーティストにありがちなボヘミアンということでもなかったが寂しい感じで可哀想に見えた。
話は混沌としてきて、低学年の子供たちは何が何だか分からなく、居眠りをしまった子供たちもいた。それでも高学年の子供たちは1時間か1時間半の話を耐えて聞いていた。日曜の午後の楽しみであったジョークも、愉快な話もなにひとつガウディは言わず退屈極まりない夜だった。
レクチャーでは4,5枚のサグラダ・ファミリアのスライドが映された。これが映画でも見ているような気分になって楽しかったと言えばいえる。
それから数カ月後ガウディは市電に轢かれて死んでしまった。学校の先生たちはこの事を話題にし、生徒たちもその後数週間はこれを話題にしたものだった。