エリアス・ロージェント(1)

Elies Rogent i Amat (1821〜1897年)
教育者、理論家、修復建築家、建築家。
建築資材を商売とするファミリーに生まれる。この関係から建築には子供のころから興味を示し、1840年当時ジョッチャにあった建築コースに学ぶが、その後1845年にマドリッドのサン・フェルナンド美術アカデミーの一部門として建築学校が設置されるとそれに転校した。1848年に卒業、その後1851年に建築家のタイトルを得ている。建築家としての登録番号は1849番であった。学生時代はフランチェスコ・ミリチア(Francesco Milizia, 1725〜1798年)の古典主義趣向に傾倒し、『古・現代建築のメモリー』(Memoria de los arquitectos antiguos y modernos)(1768年刊), 『市井建築の基本』(Principj di Architettura Civile, 1781年創刊),『サルツェルの王子とメングスによるデザインの美学を認識する手法』( Dell'arte di vedere nelle belle arti del disegno secondo i principj di Sulzer e di Mengs、 1781年創刊) などの著作が一般に読まれて、19世紀の都市計画に多大な影響を与えていたが、ロージェントも影響を受けている。あるいはヴィオレ・ル・デュクの中世回帰にも敏感で、ロージェントは市内やバルセロナ周辺の中世建築を見て歩いた。あるいはナザレ派の審美学者の影響を受けている。
建築家となったその1年後にはバルセロナのマエストロ・デ・オブラの学校の測量とコンポシションの講座を受け持つようになる。学生の頃からスペイン国内を歩いて、中世の建築を見て歩いていたが、1855年の夏にパリへ旅行して万博を見学する。しかし、その時同行していたナザレ派の審美学に傾倒していた友人たちに引きずられて、ドイツへと足を延ばしている。ストラスブルグからシュトゥットガルトミュンヘン、ニュールンベルグドレスデン、ベルリン、ポツダムで当時の新しい建築運動をつぶさに見て回った。さらに69年にもう一度大旅行をしているがその時はパリ、ドイツ、ウィーン、北イタリア、フィレンツェヴェネツィアなどを回った。

現在の蝋人形館