エドゥアルド・トダ・イ・グエイ

Eduard Toda i Güell (Reus 1855 - Poblet 1941)

外交官、エジプト学
レウス生まれのトダは共和党の地方政治家の養子として生まれている。ガウディの通った学校、ピアスを卒業し、マドリッドでは法律を勉強し、教養を備え、外国語に堪能するという才能を生かして、1873年には外交官となる。エジプト学を学ぶ他、中国、フィリピン、日本についての造詣があった。このため1876年から82年には中国へ派遣されている。1882から84年レウスに戻った後、1884年4月17日にアレクサンドリアへ到着。エジプトには1886年まで滞在し、この間すでにエジプト学の大家として名声を得て、エジプト考古学庁のディレクター(1881 〜 1914年)をしていたガストン・マスペロ(Gaston Maspero, 1846〜1916年)と親交を結んでいる。自らも発掘作業をし、王墓の近くにあった未盗掘の墓セネジェンSennedjem(第19王朝)を1886年1月31日に発見している。これらに一部はエジプトから持ち出され、文学者、政治家、カタロニア文化の擁護者であったバラゲール(Víctor Balaguer y Cirera, 1824 〜1901年) のコレクションに加わり、一部はマドリッドの国立考古学博物館に収まっている。彼のエジプト学に関する著作、論文はかなり残されている。
外交官としては98年の対米平和協定の立役者ともなっている。
さて、ガウディとはピアスの学校で学級誌『エル・アルレキン』を作っていた他、1870年の夏休みは当時廃墟化していたポブレットの修道院をガウディ、リベーラ*と訪れこの修復計画を立てたとされている。後年、1920年にはこの修道院再建計画の夢をエスコルナルボウの修道院(monasterio de Escornalbou)を買い取って修復することで実現している。また、この時ガウディに相談したと言われている。
故郷に戻った1882年にはガウディとも再会し親交を深めている。カタルーニャ科学遊覧協会にトダが参加したからである。翌年には南フランスを一緒に旅行さえしているのだった。
1918年トダも外国生活に終止符を打ちカタルーニャに定住すると、エスコルナルボウの修道院、そしてポブレット修道院修復に尽力している。また、ガウディの依頼でサグラダ・ファミリアの建設資金に3千ペセタを寄付している。

現在のポブレット修道院

バラゲールの博物館にあるトダの彫像

トダが発掘した墓の少女のミイラ

バラゲールの蔵書とコレクションを集めた自邸はバラゲール博物館として公開されている

バラゲールの博物館の銘板には貢献者の名前としてトダが刻まれている

レウスの生家にはプレートが張られている。これはドメネク・イ・モンタネールのナバス邸で、正確には生家のあった場所ということになる。