ハシント・ベルダゲ・イ・サンタロ

Jacint Verdaguer i Santaló (1845〜1902年)
僧侶。詩人。
ディアゴナルにあるベルダゲのモニュメント


8人兄弟の3番目。11歳になるとビックの神学校へ入学。同時の教師の資格を取るための勉強も続ける。この間カタルーニャで開かれていたジョックス・フロラルス(Jocs Florals, ローマで花の神に倣った詩作のコンテストから発想したカタルーニャ語の詩作のコンテスト)に参加して、1865年、66年には受賞している。1870年にはビックに僧侶として配属され、同年始めてのミサを行っている。健康上の理由から配属された山の小さな教会を出て、海の空気が体に良いという事でバルセロナへ移る。友人の紹介で1973年にはアントニオ・ロペス*の経営するトラスアトランティカ社の専属の僧侶として仕事を得る。翌年にはカディスからハバナに向けて出港。1876年に帰国するが、この船内で『アトランティダ』L'Atlàntidaを書く。翌年これを発表しジョックス・フロラールスで特別賞を受け、詩人としてのベルダゲの評価を確固たるものとする。この前年からコミージャス候、アントニオ・ロペスの寄宿僧としてラス・ランブラスの彼の家に住み詩作を続ける。専属の僧侶として邸宅内のミサを行ったのをはじめ、家族に信頼関係を得て、家族と同じテーブルで食事をするまでにその親交を深めた。1878年ローマ法王に謁見し、アトランティダの事を話題にした。1883年発表の『バルセロナへ頌歌』は市役所が10万部印刷し、このおかげで翌年にはパリ、スイス、ドイツ、ロシアへ旅をし、86年にはエルサレムへ巡礼の旅をしている。これらも全てコミージャス候のおかげであった。しかし1893年には政治的な意見の違いで、コミージャス邸から追い出されてしまう。そればかりか、バルセロナ司教からも僧籍を取り上げられてしまう。48歳の時であった。友人を頼り再度田舎に轢き込み、詩作どころが悲惨な最期を送って57歳の生涯を閉じてる。
ベルダゲの貢献はカタルーニャ語での詩作なわけであるが、皮肉にもそれをサポートしたのはカンタブリアの出身の成金のアントニオ・ロペスであった。この庇護下にベルダゲの作品は書かれている。
1世代若いガウディはグエイとの付き合いが始まる頃にベルダゲに接近、グエイ別邸を設計した時に『アトランティダ』をライトモチーフにしてデザインをしたと言われている。