マヌエル・ビセンス・イ・モンタネール

Manuel Vicens i Montaner
ブローカー
レナシェンサ(Renaixença)というカタルーニャの文化運動があった。これはちょうど、モデルニスモの建築、美術運動同様カタルーニャの経済成長期に対応して展開されたのだが、中央政府のカスティージャ語に対してカタルーニャ語の復興、果ては優勢を旗印に文学運動として広がった。ある意味ではローマン主義に繋がり、それは過去の栄光を称賛、あるいはポピュラリズムを再興させるという結果を生んだとされるが、何よりもこの頃にベルダゲール*などのカタルーニャ語を文芸作品にまで高める作家が出た事には、間違いがない。ガウディの周りにはこのベルダゲールはもちろん、多くの友人たちがレナシェンサに何らかの形でかかわっていた人が多い。その中でも最初期の、彼に何らかの影響を与えた人の一人にマヌエル・ビセンスがいた。
マヌエル・ビセンスはブローカで、若いガウディをこのレナシェンサの運動のなかで知り合いになったらしい。1878年に母親から土地を遺産としてもらい受け、そこにガウディが一軒の個人住宅の設計をしたのが1883年1月15日。しかし、完成は1888年まで長引いている。この間1880年から11年間、ガウディとビセンスとの親交はかなり密接なものがあったらしく、ビセンスが持っていたバルセロナ近郊のアレージャの家に休暇の日々をここで過ごしていた。

ガウディが世話になったビセンスのアレージャの家

ビセンスのアレージャの家にガウディが設計したマントルピース

ガウディとアレージャについては
http://d.hatena.ne.jp/Arquitecto+AntoniGaudi/20120919/1348034456
ビセンス邸については
http://d.hatena.ne.jp/Arquitecto+AntoniGaudi/20120731/1343708950
http://d.hatena.ne.jp/Arquitecto+AntoniGaudi/20110914/1316067118
などにあります。