チュリゲラ家/Los Churrigueras


サンティアゴのカテドラル

ホセ・ベニートはチュリゲラ家の中でもっともチュリゲラらしくないといっても過言ではなく、チュリゲラがチュリゲレスコを生むのは、一番末のアルベルト(Alberto,1676〜1750年)を待たねばならない。それもホセやホアキン(Joaquín,1674〜1724年)の没後にそのパーソナリティーは花開くのである。彼は直線と曲線を対立させ、ロココ的なモチーフを使っている 。
ところがよりチュリゲレスコなのは、皮肉にもチュリゲラ家の追従者たちなのであった。18世紀のガリシアでは、このバロッキズムがよく受け入れられ、サンティヤゴ・デ・コンポステーラのカテドラルが再び建築史に顔を出してくるのである。
オブライロのファサード(主正面)にはロマネスクのファサードのうえに重ねられ、イルミネーションと、上部のサンティアゴの像の設置と同様、透明性が与えられるために、巨大なガラス窓が備えられ、ほとんどガリシア地方の伝統さえ生み出すが 、ここにはまさしくオーナメントのオードブルが盛りつけられチュリゲレスコのハーモニーをかもし出している。
さらに驚異的なチュリゲレスコは、フランス・ゴシックのトレードのカテドラルという中にさえつくられた。周歩廊内の最大礼拝堂裏、完成時には、世界の8大不思議のひとつに数えられた「トランスパレンテ」(透明)である。
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オブラドイロのファサードから堂内に差し込む光による、ロマネスク教会のバロック


ヴォールトからぶら下がっているのはボタフメイロという、香を炊くもの。汚れた巡礼者にこれで香を振舞うとされ、ブランコさながらに身廊いっぱい前後揺らされる。

ファサードの大きなガラスの開口から光が差し込むように計算されている。

トレドのカテドラルの祭壇裏、周歩廊に付けられたトランスパレンテ
2009年4月10日撮影

1997年9月撮影

■チュリゲラ
Churriguera
活動:17〜18世紀
 スペインの建、装一族。マドリッドサラマンカで活躍する。この一族が生んだスタイルから「チュリゲレスコ」(チェリゲラ風)という用語が生まれ、これが絶大のスペイン・バロックの絶頂という意味に同義語化し長期にわたって使用されることになり、しかも乱用されるまでに至った。彫刻家ジョセップ・ラテス・イ・ダルマウ(Josep Ratés i Dalmau)はバルセローナ生まれで、マドリッドに1674年以前に居を構え、1684年に没している。その妻テレサ・エリアスは建築家である前夫●ジョセップ・デ・チュリゲラとの間に彫刻家となった一子●ホセ・シモン・デ・チュリゲラ(José Simón de Churriguera)をもうけていた。彼とその義父はマドリッドのモンセラ病院付属教会(Montserrat)のために、サラゴサのピラール大寺院の作者である建築家フランシスコ・エレーラ・エル・モソ*の案に従って、祭壇(1903年崩壊)をつくった。ホセ・シモンが1679年に没すると義父ジョセップ・ラテス(Josep Ratés)はその子供たちホセ=ベニート、マヌエル、ホアキン、アルベルト、ミゲルを育てた。そのうち3人までがチュリゲラの名にふさわしい輝きをみせた。
 ●ホセ=ベニート(José-Benito, マドリッド/1665〜1725年)はセゴビアのカテドラルにあるサグラリオの祭壇(Sagrario, Segovia, 1686〜90年)の作家。ブルボン家の王女マリア・ルイサの棺台のコンペ(1689年)に勝ち名を上げている。1690年10月8日に王宮の設計助手を任命されているが、無給でしかも1696年までこのタイトルに見合った仕事はしていない。1693年から1700年までサラマンカの新カテドラルのサン・エステバンの最大礼拝堂(San Esteban)の仕事に従事。後者はそのモニュメンタリティーと装飾の創作性が融合した最も美しいもののひとつ。ナバーロ出身のグアダラハーラからさほど遠くないヌエボ・バスタンにガラス工場を設営した貴族ファン・デ・ゴエネチェ公爵(Juan de Goyeneche)の庇護を受ける。ここで、サン・フランシスコ・ハビエル教会(San Francisco Javier)、宮殿、パティオ、庭園、この小さな町の都市計画をさせている(Nuevo Baztán, 1709〜13年)。またマドリッドではアルカラ通りにパトロン、ゴエネチェ公の館を設計、その入口は1773年にネオ・クラシックで改装されて、今日ではサン・フェルナンド王立アカデミー(San Fernando)となっている。晩年は祭壇を主に手掛けた。彼の死に際して『マドリッド官報』はスペインのミケランジェロと評した。彼の業績は主に祭壇彫刻家、装飾家としてあり、保守的で地方的ですらあった。

マドリッドの近郊ヌエボ・バスタン
 ●ホアキン(Joaquín, マドリッド/1674〜1724年)は1717年サラマンカでカラトラバ神学校(Calatrava)の建設を始め、その弟子アルベルトが1725年以降これを続行している。この町でホアキンはアナヤの神学校(Anaya)、新カテドラル交差廊、キューポラの設計をしている。このキューポラは1714年に建設が始まったが、1755年の地震のため再建せねばならず、チュリゲラの部分はタンブールと迫り元しか残っていない。これらの作品はチュリゲレスコのなかでも、ホセ・ベニートにすでにみられるようにオリジナリティーに富まず、むしろ保守的ですらあるのは、サラマンカという街のプラテレスコ様式のモニュメントに感化されているからである。
 これに比べると●アルベルト(Alberto, マドリッド/1676〜1750年)は奔放な作風でバロック期の「精神錯乱者」に分類できうる。1728年にサラマンカのプラサ・マヨール(Mayor)の設計依頼を受ける。これは閉じた広場で周囲に散歩道のようなアーケードが付くという、ファン・ゴメス・デ・モーラ*によるマドリッドのプラサ・マヨールと同様のタイポロジーである。サラマンカのものは気品があり調和がとれ風通しがよく、間違いなくスペインで最も美しい広場といえよう。起工式は1729年3月10日、北側の市庁舎を伴う王室パビリオンは1733年に完成しているが、全体は1758年に完成し、後任のアンドレス・ガルシア・デ・キニョーネス*によって原案に一部手が加えられている。1729年アルベルトはバジャドリッドのカテドラル(Valladolid)を完成させるためのプロジェクトを提出している。これはエレーラ*の原案のオーダーに精気と活気のリズムを与えている。サラマンカサン・セバスチャンの教会(San Sebastián, 1731年)はアロンソ・カーノ*やドミンゴ・デ・アンドラーデ(Domingo de Andrade/1639頃〜サンチアゴ・デ・コンポステーラ/1712年)、ペドロ・デ・リベーラ*あるいはポルトガルのマフラの修道院(Mafra)の作者ルートヴィヒ*までに接近していたことを示している。サラマンカのカテドラルではアルベルトは教会参事会が支持するペドロ・デ・リベーラの巨大な塔を建設するプロジェクトを認容できかね、辞職してトレドへ移り、ここではオルガス教区教会(Orgaz)を建設。これはその没後に完成している。
三交社刊『建築家人名事典』より
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三交社のBlogです
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アルベルト・チュリゲラ設計のサラマンカのプラサ・マヨール
1981年9月10日撮影

2011年3月撮影iPhone4 Panoramic 360