コデルク/Coderch

このうちコデルクは途中から脱会しているものの、この時代のもっとも象徴的な建築家であろう。
彼自身はTEAM10の構成員であったのだが、1911年のミラノ・トリエンナーレで受賞、そしてナシオナル通りのアパート(1952〜1955年)ではトラディショナルな構成エレメントの使用からファサードに新たな解決法を生み出した戦後初の合理主義建築をつくった 。
そして60年代に入るとスペイン経済の立ち直りとともにコデルクに対しても大きな仕事(アパート・ヒラソル、1965〜1968年、トラーデ・ビル、1966〜1969年など)の依頼が始まり、諸外国の最新の技術を遅ればせながら導入し、自分のスタイルとしていく努力のなかで、バルセローナ派のマエストロとしての位置を固めていく。
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トラーデ・ビル, Barcelona

近代的なオフィスビルとしてほとんど最初期のビルですが、同時にカーテンウォール、ファン・コイルもほぼ市内で初めて使われた建物でした。

4基の中層で、基壇部分には更にこれらを繋ぐようなプラットフォームがあり、地下にも当時としては大きな駐車場があります。


フランス学院, Barcelona

窓の幅の狭さは68年の学生運動の名残りで、教室の窓から机を投げ出すことを避けるためです。


ひまわりのアパート

コチェーラスの集合住宅, Barcelona

一等地にある高級集合住宅ということで、デヴェロッパーの仕事を引き受けたのですが、コデルクのコーナーをたくさん作るというプランの典型的な作例です。

手前の門はガウディのミラージェス邸のもの、まだ門番小屋が残されていますが、これは弟子のルビオの設計だったのですが、今では残されていません。しかし、門扉には庇があったのですが、これの方は再建されました。

フレイシャ通りの集合住宅、Barcelona

こちらは4棟のコチェーラスの集合住宅に比べると更に高級だったのですが、デザインのレベルもずっと高いですね。


以上2点 2011年6月26日撮影

ベートーヴェン通りの集合住宅、Barcelona


パセオ・ナショナル(現在パッセイジ・ジョアン・ボルボ)の集合住宅, Barcelona


バルセロナ港自体の姿がすっかり変わってしまいました。町に接近している旧港部分はヨットハーバーで賑わい、上の写真は80年の末頃のもですが、この辺りにあった実際はすでに使われていなかった倉庫がオリンピック前の時期にほぼ撤去されています。
2011年6月23日撮影

折れ曲がっているファサードの壁面のルーバーとタイル。

腰壁の石積み

1980年代のコデルク事務所の様子


コデルクがグルーポRを抜け出したのは、他のメンバーが全て急進的な左翼なのに、彼はブルジュアに生まれ、しかもフランコ派であることを隠すこともしなかったので、仲間の中では居づらかったのであろうと思います。コデルクは本当にうまいというのは初期の個人住宅でしょうか。ほとんど全て名作というほかはないでしょう。彼の作りだす空間は人を包み込む優しさがあります。晩年の比較的大きな作品も大きなヴォリュームを嫌い、角を取り、ジグザグを作り、これはボイーガスにも大きな影響を与えて、ジグザグ男とボイーガスは呼ばれるのですが、もともとはコデルクからきていると言えましょう。
コデルクは日本では前川さんのように彼の残した業績は今も尊敬されています。彼は極端に論文なのも書かなかったのですが、わずかに残した論文には「我々は天才など必要ではないのだ]という趣旨の内容で建築学校への批判でもあり、建築技術設計者の養成の必要性を述べています。