バルセロナのガウディ建築案内番外編⑯

建築学校Escola de Arquitectura
1868年9月10日、サン・ジョルディ美術アカデミーはバルセロナ県立工科学校新設を申請する。もっとも1817年にはこの前身ともいえる学校がバルセロナ商工会議所(Junta de Comercio。建物はロンハと呼ばれる)の主導で、同会議所内に建築家セリェス(Antonio Cellés, 1775-1835年)によって建築教育の教室が設置されている。マエストロ・デ・オブラ(建築の設計ではなく主に現場を担当する専門職で)の育成を目的としたコースで。その後バルセロナの建築家学校ができるまでは、多くの建築を目指す人たちが、建築関係の資格を取るためにはやむなくこの教育を受けるしかなかった。その後建築学校が開設されると、マエストロ・デ・オブラの中にも建築家のタイトルを取り直す人が多くあった。たとえばガウディを見込んでサグラダ・ファミリアの建築家に推挙してくれたマルトレイもこのうちの一人であった。建築学校はやはり1868年の時点で、新設される道筋ができたといえる。そして1870年10月にやっと建築学校が新設される。しかし前年に新設されたバルセロナ県立工科学校に所属する形式で発足、建築家のタイトルはいまだ独自に発行する権限はなく、マドリッド建築学校だけが発行できた。こういう暫定的な時期である1871年にはガウディは建築学校の予科に通うようになる、建築学校の校舎はまだなくロンハの3階にあった。ガウディは1872年10月に本科に入学したが翌年の1873年、エリアス・ロージェント(Elies Rogent i Amat, 1821−97年)の設計になる大学の新校舎(着工は1863年、全て竣工したのは1892年)ができ、このバルセロナ大学内に、バルセロナ県立建築学校が移転される。しかし今だマドリッド建築学校に所属していたため、マドリッドにて卒業試験がなされ、マドリッドで建築家のタイトルが発行された。この頃建築家を目指していたドメネク・イ・モンタネールはこのためマドリッドの王立美術アカデミーの建築学校で1873年12月に卒業している。翌年1874年度からそれでも独立。ガウディが2年生の時に総合大学の体をなした新大学校舎がに移転したことになる。建築学校の教室はこの建物の左手、時計のある塔の下に教室があった。
所在地:Plaça de la Universitat
アクセス:L1 Universitatで下車


当時建築学校のあったバルセロナ大学

ロンハの建物

ガウディが学んだ教室の窓

大学のメイン・ホール

バルセロナのガウディ建築案内 (コロナ・ブックス)

バルセロナのガウディ建築案内 (コロナ・ブックス)