2012-06-01から1ヶ月間の記事一覧

ガウディは近代建築家であったのか

最近のコンピューター解析を使っての研究を通じてガウディの面白い面がわかってきた。 それは主にカサ・ミラの始めての大規模な修復工事、また、サンタ・コロマ聖堂 の地上部分の理想復元作業などを通してである。 これらの経験や研究から分かったことは、先…

建築をする場

また、重要ないくつかの出来事がガウディの時代のバルセロナで起こっていた。 ガウディは創設されたばかりのバルセロナの建築学校に入学した。 地方都市レウス で生まれた一介の銅細工職人の次男では、もしマドリッドにしか学校がなかったらエリート階級の教…

ガウディの多面性

ただ、ガウディが本当にカタルーニャ主義者であったかどうかは実は分からない。 というのはその作品の系譜を見てみるとそれが釈然としないからだ。 カサ・ビセンスやトラスアトランティカ社の八十八年万博パビリオンのネオ・ムデハリズム 、前章でみたサグラ…

モデルニスモ

最近ではバルセロナの近代美術館の館長であったクリスティーナ・メンドーサ(現カタルーニャ美術館館長)と兄の文学者であるエドゥアルド・メンドーサは『モデルニスモのバルセロナ』の中で『この世代の中でも無論いくつかの例外を見るべきであろう。 アント…

モデルニスモ とガウディ

ヴィンセント・スカーリー は一九六一年に出版したある本で『アール・ヌーヴォーは、その影響がアントニオ・ガウディに達したときに、とりわけ根本的なものであったように思われる。 彼の連続的な構造は、事実、常に共感をもってうけとめられてきた。平面に…

今井兼次教授

しかし例外がなくはなく、近代建築運動の形成期で一貫してガウディを理解しようとし、擁護してきた早稲田大学の故今井兼次があった。 彼はまず一九二六年、ヨーロッパの地下鉄の駅を視察するという目的で給付留学生となってヨーロッパへ出向くわけであったが…

Le Corbusier, Joaquín Gomis, 『gaudí』, Editorial RM, Barcelona, 1958年、2-1〜2-2頁Modern Architecture, Romanticism and Reintegration, New York, 1929Henry-Russell Hitchcock, Architecture:『Nineteenth and Twentieth Centuries』, 239頁同上、2…

ヘンリー・ラッセル・ヒッチコック

無論大戦を挟んだその三十年間の間で変身したのはコルブばかりではない。 建築評論の大家ヘンリー・ラッセル・ヒッチコックは『彼(ガウディの)の作品は確かによいものでも必要なものではない。 一九二一年に作られたエリッヒ・メンデルゾーンのアインシュ…

第二章

ガウディへの評価ル・コルビュジェとガウディ ル・コルビュジェは一九二八年春、マドリッドでのレクチャーを終えてから思いがけなく後に弟子となるセルトから誘われてバルセロナへと旅をしている。 この時、コルブが生涯綴り続けたという旅のノートの中にい…

ガウディの彫刻制作

コロニア・グエルの教会の設計過程でガウディが図面ではなく三次元の模型で設計をしていたことが分かるのだが、更にガウディは彫像を作るときも同じような方法で作っていた。 つまり、それらしいモデルを探し、適当な衣装を付けさせ、これを三面鏡の前にポー…

コロニア・グエルの教会

一番よく知られているのは、晩年に一〇年もかけて設計したコロニア・グエルの教会だろう。 この教会にはカテナリー模型とか、フニクラとか呼ばれているタイプの模型が設計の主な手段として使われた。 この模型は実は非常にリアリティーのある、つまり現在新…

ガウディのデザイン・プロセス

ガウディは独自なデザイン・プロセスを持っていたことも分かっている。 ミケランジェロはサン・ピエトロのドームを建設した時、建設業者がアーチの曲率を間違えたことから南トリビューンのヴォールトにクラックが入って工事を中断せざるをえなかった。 ミケ…

創造はオリジンに戻ることだ

完成した身廊 祭壇を望む 二〇一一年に屋根がかかった身廊部分、あるいはそれ以前に着工し、すでにほとんど完成している御光栄の門はガウディが死んでからその弟子たち、あるいはその孫弟子たちによって建設されている。 ガウディはまさしく創造の人であった…

ピナクル

更に上部のピナクルともなるとこれはもっと自由な発想から出発している。 ガウディは晩年、グエル公園の家を売って教会建設資金を捻出するばかりか、自ら作業場に移り住んでいたが、この時彼が使っていた寝室の様子がわかる写真が残っている。この写真は現在…

回廊、ロザリオの礼拝堂