2011-12-01から1ヶ月間の記事一覧

Part 6 ガウディの設計手法

フアサ一ドのエレヴーションをみると,開口部は不均一に,しかも水平線にも不連続が強調され,カサ・バトリョで張りぼて式に付けられたファサードの曲面は,ここではブランから起き上がつたようにうねっている。バルコニーがこれも不連続にしかも,無分別な…

ベレンゲールのOr通り44番地の家

1909年建設 広場をのぞき見るようにして建っている面しているこの建物は、鉄細工、スタッコそしてトリンカディスが、ここでは若干のレンガの化粧積みで窓周りを飾っている。バルコニーのプランの局面を手すりに反映して、ファサードは控えめなうねりを生んで…

Part 5 カサ・ミラの構成

著作を何ら残していないガウディの建築論を再構するのは,ほとんど不可能であるが,それを助けてくれる弟子ベルゴスが書き取ったノートがあり,それよりかいつまんでみれば,快適な住宅は1戸150平方メートルが必要で,工夫すれば120平方メートルまで可能だが…

ガウディとベレンゲール

ところでその後ボデーガ・デ・ガラーフの建物らしいものが書かれた図面がシッチェスの市役所で1枚だけ発見されている。それはサイトプランのようなもので現存の平面とは一致しないのだが、これには27キロメートル地点(住所番地がない場合、街道のポイント、…

一人の証人

もうひとり、ボデーガ・デ・ガラーフで生まれたという人がいる。彼は管理人の息子で、その父親というのはグエイ家のスックス(Sucs, レイダ県)にある別荘の雇用人の一人であったのだが、何らかの理由でガラーフに来て、そこでボデーガの建設に立ち会ったの…

Part 4 2つの案

各フロアは4分されるが,各戸は街路面と内パティオ両方のファサ一ドを持つように考えられていて,やはり大邸宅を積み上げようという構想を捨てず,またそれをエレべーションからも考へているのである。しかし,このことにもう少し正確な解釈をつけ加えるとす…

Part 3 ガウディのアイディア

ガウディはカサ・ミラのために二つのブロジェクトを案出している。第1のそれは中央に一つのパティオを置いたもので,そのパティオに沿って二つの,つまり上りと下りのスローブを付属させることによって屋外から直接各戸まで街路を引き込もうという驚くべきダ…

コルビュジェも同じことを考えた

また、ル・コルビュジェはゴミス=プラッツの写真集“ガウディ”に寄せた序文にこう書いている。「1928年、ジュネーブの国際連盟会館のコンペの最中であった。建築についてのレクチャーをするためにマドリッドの大学に呼ばれた。マドリッドでは差出人がホセ・…

カサ・ミラーボスト・モダンの標石 Part 2

「この建物の建設規模は,約34x56メートル,面積1800平方メートル,しかも角地で,8層プラス地下1層というガウディの作品中ではこれまでにないものである。 しかし,このガウディが迎えた黄金期における彼が成し得た個性に対して,ヨーロッパやアメリカでは…

ガウディの作であると証言するサルバドール

さて、このベレンゲールによって設計されたといわれてきたボデーガ・デ・ガラーフには、それを否定するような証人がいくらかいるのでそれを見てみよう。 マドリッドの建築家で国会議員でもあったアモス・サルバドール(Amós Salvador Saénz y Carreras, 1879…

フランセスク・ベレンゲール

ベレンゲールはガウディと同郷のレウスの出身で、そのうえ父親はガウディの恩師であった。そして1881年、15歳になって丁度ガウディと同じような経緯でバルセロナへ出て、美術・建築を志すのであった。ところがベレンゲールもまた劣等性であったことがその成…

カサ・ミラーボスト・モダンの標石 Part 1

「この建物が将来一大ホテルへ転用されたとしても私は少しも不思議とは思いません。そのために平面構成の変更が容易であるように考慮してあるし,また洗面所もたくさん設けてあるのです。」 一ガウディ一こうしてガウディが半世紀以上前に予見したように,カ…

サグラダ・ファミリア略史 3

1993年 身廊合唱隊席の建設 1996年 側廊のヴォールト建設 2000年 身廊、トランセプロのヴォールト建設。御光栄の門基礎建設 2001年 御受難の門中央大窓の建設、復活のステンドグラス、交差廊の4本の柱の建設 2002年 学校の補修と移転 移転された学校 もとも…

ボデーガの謎

ところでこの灰色のガラーフの石でできた小さいが美しい建物は、ガウディの作品ではなく、その弟子ベレンゲールの作品だと長年判断されてきた。例えばガウディの没後、アーカイブを整理し、ガウディについての最初の本を書いたラフォイスは「フランシスコ・…

サグラダ・ファミリア略史2

1939年1月26日 ナショナリスト軍がバルセロナに侵入 1936年に壊された学校の再建 地下聖堂の修復開始 1936年に暴かれたガウディの墓の遺体の検身 サグラダ・ファミリアの現状を報告するパンフレット《Hoja Informativa de los destrosos de la Sagrada Famil…

ボデーガのチャペル

外部から直接チャペルに行ける階段がある 最上部にはアルコーブのようなスペースがチャペル前にある この細い柱 2011年9月24日撮影 海側を見る チャペルの入り口になっているドア 2011年9月24日撮影 チャペルのインテリアはサンタ・テレサを思い出す連続アー…

ボデーガの母屋

ここで目につくのが4つのパラボラ・アーチ、それに母屋の三角形の断面形であろうか。母屋の下部の大きなパラボラ・アーチは馬屋となっていて、アーチのすぐ右側には乗馬用の壇が付けられているのはグエイ館と同様だ。母屋は3層になっていて、まず主階は3つの…

サグラダ・ファミリア略史

1866年 ジョセフィーノス・ファンデーションがボカベージャによって設立される 1875年2月 ロレトのレプリカの絵がファンデーションの刊行誌に掲載される 1877年 F. de P. Villarは贖罪の教会のプロジェクトを無償で提供すると申し出る 1882年3月19日 ビジャ…

3/13 ボデーガ・デ・ガラーフ

ガラーフの村 魚師はいなく、今では漁港にヨットハーバーが出来ている 昔の漁師の小屋は休暇用の住宅になっているここにひとつの謎がある。それは通称ボデーガ・デ・ガラーフBodega de garrafと呼ばれるバルセロナ郊外に建てられた、小さな別荘風の小規模な…

サンタ・マリア・デル・マル プラン

サグラダ・ファミリアご誕生の門

1900年 1907年 1912年 1915年 1920年 1927年 1927年 1972年4月17日撮影 2011月11月27日撮影

サンタ・マリア・デル・マル内部

3身廊形式に周歩廊が内陣に見える 細いリブ 側廊のバットレスにはチャペルが組み込まれる形で配置されている 側廊見上げ 周歩廊から祭壇側を見上げる 連置されたヴォールト 中央が側廊、左が身廊、左がバットレスに取りこまれているチャペルのヴォールト ヴ…

ご誕生の門その他の部分

切妻には垂れ流れる石 天使の下には巻かれた石が トランペットを吹く天使 ガーゴイルはカメレオン 中央の入り口の両端には切り妻を受ける柱があり、これの基壇には亀がいる 同上部 切り妻 この切妻がガーゴイルに変貌

サンタ・マリア・デル・マル外観

正面を見る 1970年代はファサードも汚かった 車の進入も可能で、今は遊歩道になってしまった 正面見上げ 内外部がきれいになってしまった タンパンにはまだ彩色されていた跡が明らかに残っている 側面はマッスが強調されている 2011年12月4日撮影 2011年7月1…

ご誕生の門”信”の入り口

大工だった幼少のイエス

サンタ・マリア・デル・マル Santa Maria del Mar

バルセロナの現在のホット・ポイントである、ボルネ地区にあるサンタ・マリ・デル・マル教会Santa María del Marはカタラン ・ゴシックの代表的な教会と評価されている。この辺りは旧市街が観光客に占拠されてしまったが、ボルネはデザイナーなどが最近集ま…

ご誕生の門”望”の入り口

ヨセフと幼児イエス エジプト逃避 乳飲み子の虐殺 最下部にある、あひる

8人会

この8人会はエリアス・ロージェントの参列からモメネク・イ・モンタネールへの設計依頼が確実なものとなった。ロージェントの建築学校での将来株はもちろんドメネクであったのだ。ドメネクはカフェ・レストランを博覧会場の中に設計し、国際ホテルをラス・ラ…

バルセロナ88年万博

シウタデーリャ公園はフォンセレの計画が進行していく中で1888年万博をバルセロナでという企画が持ち上がり、これにシウタデーリャ公園を充てることが決まった。 コミッショナーは当時の市長フランセスク・リウス(Francesc Rius i Taulet, 1833〜1889年)、…

ご誕生の門”仁愛”の入り口

ダブルになっているこの入り口を分ける柱、これに纏い付く鉄細工 サグラダ・ファミリア ヨセフ、マリア、イエス クリスマス・ツリー ”仁愛”の入り口を見上げる